SEPTEMBER25のDIARY 『シャーロット・ランプリングの歌』

 
  連載している雑誌のCD紹介の原稿のためにいつも新譜に目を配っているが、月によって当たりハズレがある。今月は、けっこう「アタリ〜!」の月だったような気がする。CDのライナーの原稿は、クラッシックの方が多いけれども、雑誌の原稿はほとんどポップス関係だ。まあ、私にロックや演歌の原稿を依頼する人はいないので、そういったジャンルは他に人にまかせておくけれども、今月の私の中のピカ一は、シャーロット・ランプリングが歌うシャンソンのアルバム(『男を見つめる女のように』というタイトル)。そう、あの女優のシャーロット・ランプリング。
 大体、彼女が歌うっていうことすら初耳だったけれども、そのジャンルがシャンソン!(彼女は、イギリス生まれの女優じゃなかったっけ?)けっこう半信半疑で聴いたけれども、これがかなりイイ!
 私は、個人的にはフレンチ・ポップスの仕事をたくさんやっているけれども、このシャンソンというジャンルはいまいち好きになれなかった。今でもそれほど好きではない。でも、ランプリングの歌を聴いて、シャンソンってホントはこういう事なんじゃないのかなと、ちょっと目から鱗のような状態になってしまった。多分、人によってシャンソンということばに対するイメージが違うのだろうけど、私の持っているシャンソンのイメージは、あまりにもオーバーでドラマチックに語り、歌いあげようとする時代錯誤の歌というイメージ。何もあそこまで思いいれたっぷりに歌わないと歌っていうのは表現できないのかナ?っていう思いを、シャンソンに対してはいつも持っていた。でも、ランプリングの歌を聴くと、それとはまったく違う世界がそこにあり、「あれ、あれ?」って思ってしまう。
 シェールやベット・ミドラーといった歌手は、演技者としても超一級。それと同じように、一流の俳優は歌手としても超一級、とは必ずしも言えない。でも、このシャーロット・ランプリングの歌を聴いていると、シャンソン歌手が過剰に演技しながら歌うあの歌い方のウサン臭さの意味がよくわかったような気がした。
 よく人は、「心で歌いなさい」とか「心で演技しなさい」といった言い方をするが、そう言われれば言われるほど、オーバーな表現しかできない人が多い(最近の日本のドラマの演技なんて、その一番いい例だけど)。人間、もともと自分の中にないものなんて出しようがない。口先だけのセールス・トークなんて、とても信用する気になれない。「あんた、本当にそう思ってるの?」って突っ込みを入れたくなってしまう。話術だけでついコロっと騙されてしまう人に、もうちょっと人間を観察した方がいいんでは?とつい言いたくなってしまう。表面的な技術やことばに騙されると、人間、絶対に本質を見失ってしまう。
 このランプリングの歌を聴いていると、感動するとかそういったことではなく、表現するものを持っている人は、たとえそれが歌であっても演技であってもまったく同じなんだなということがよくわかる。その意味で、私は、このCDがエラク気にいってしまった。もちろん、女優としてもシャーロット・ランプリングは大好きなので、その人が歌でもこれだけのモノを表現できるんだということがわかっただけでもとにかく嬉しいのだけれど....。

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