SEPTEMBER12のDIARY 『役者が違う』

 
 昨年の9月11日のことは今でも鮮明に思いだせる。
 友人と会った帰り道、その別れたばかりの友人から私の携帯に電話がかかってくる。「今大変なことが起こってる。ラジオでも聞いて!」と興奮気味に話す友人の声に誘われて、運転していた車のラジオをつける。NHKのアナウンサーがたんたんとニューヨークで起こっているらしい情景を描写する。友人は、自宅のTVで見ている光景を携帯電話越しに説明してくれる。TVで見る風景に興奮する友人とは裏腹に、ラジオのアナウンサーは、その一大事をあくまで冷静に事細かに描写していた。
 そして、帰宅すると同時にTVのスイッチをつけてみた光景と、先程までラジオで聞いていた私のイマジネーションの中の風景とを一挙に交差させる。
 「ラジオで聞いた風景の方がはるかに現実味があるじゃないか」。私は、瞬間そう思った。
 TVは、あくまで映像を中心に作られている。だから、そこに付加されることばは、その映像の補足でしかない。ことばが多少舌足らずでも、映像を見ている人たちが勝手に判断してくれる。だから、ことばがお座なりになる。しかし、ラジオというのは、ことばでしか描写できない。だからこそ、ことばの選択や語り口に細心の注意を払う。
 私にとって昨年の9月11日の出来事は、単にとんでもない事が起こってしまったという感想と同時に、ラジオの実況の語り口にあったように、真実を伝えるためのことばがこれほどまでに大事なものだったのかということを本当に思い知らされた出来事でもあった。
 そして、それから一年後の昨日のTV中継を見て思ったことは、政治家が発することばの大切さの問題でもあった。
 セレモニーに集まった各国の首脳のスピーチを聞いていて咄嗟に思ったこと。
 「役者が違う」。
 アメリカの政治家というのは、どうしてああもセリフ(スピーチ)がうまいのだろう?
 原稿があるに違いないスピーチをなぜにあれほどまでに淀みなく、かつ感情をこめて大衆の前で演説することができるのだろう?それは、まるで俳優が、覚えたセリフを政治家に成りきってしゃべっているようにも聞こえてくる。
 それにひきかえ、日本の政治家は、いつも目の前にある原稿を棒読みするだけ(小泉さんの英語のスピーチは、多少感情の起伏はあったけれども)。政治というのは、ヒットラーの例でもわかるように、大衆に対する説得力が一番大事なのにもかかわらず、日本の政治家は、このことをまったく理解していないように思える。政治家にもっとも必要不可欠な要素は、本来、ことばの巧みさとことばの説得力であったはず。だから、大学の弁論部出身の政治家が昔は多かったのだが、今は、そんなことはどうでもよくて、どれだけ根まわしが上手で、どれだけお金を集められるかが政治家の必要条件になっているようにも見える。
 ブッシュの顔も嫌いだし、やっている政治も言っていることも大嫌いだが、少なくとも彼のスピーチは、日本の政治家の誰よりもウマイ。けっして、ブッシュがスピーチの一番うまい政治家とは思えないし、むしろ、アメリカの政治家の中ではヘタな部類に属するのかもしれない。それでも、小泉さんよりははるかにことばの説得力があるように聞こえるのはなぜなのだろう?
 役者は、その役柄がなんであれ、その役になりきらなければセリフに説得力を持たせることはできない。きっと、ブッシュと小泉の違いはここなのだろうと思う。自分のしゃべっているセリフに完全なる自信(かなり身勝手な自信だけれども)を持っているブッシュと、半ばやけくそのようにセリフをしゃべる小泉さんとでは、その演技の説得力に差が出てくるのは当然なのではないだろうか?

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