SEPTEMBER10のDIARY 『写真』

 
  家に帰ってくると必ずネコが玄関で出迎えてくれる。年寄りネコなので、かなり以前より甘えるようになったが、それでも主人の帰りをひたすら待っているのは、いつ帰ってくるかわからない私への当てつけなのか、それとも一種の甘えの表現なのだろうか?
 22年も一緒にいれば何となくはわかった気にはなるのだが、本当に確実なところは彼女が口を聞いてくれないのでよくわからない(それにしても、最近ニャーニャーとよくしゃべること)。まあ、何にしても、誰かが出迎えてくれるのはありがたいことだと思う。
 全然話しは変るが、私は写真が大好きでよく写真を撮る。料理と同じぐらい好きかもしれない。写真と料理。あんまり関係のない事柄のように見えるけれども、私の中ではほとんどつながっているもの。音楽も同じ。要するに、いい音楽、いい料理、いい写真は、すべて感覚的なもので、けっして技術ではない。一眼レフのカメラで撮る時にはそれなりの技術がいるが、今どきのデジ・カメでは、誰でもシャッターを押しさえすれば簡単に写真は撮れる。しかも、技術的な失敗はほとんどない。でも、できあがった写真には、それを写した人の心や感覚がモロに出てくるので、ウマイ、ヘタが非常にはっきりと出てくるのも確か。同じ被写体を狙っても一人一人の持つカメラのフレームには、まったく違ったモノが写っているとしか思えない。
 カメラのファインダーの中、「フレーム」には、そこを覗く人の心が如実に写し出されてくる。カメラをかまえる人が違えば、そのフレームの先に見えるものも当然違ってくる。「美」というのは、それぞれの人間の心の中にあるもので、絶対的な美など存在しない。だから、それぞれの人間が持っている美の尺度が問題になってくる。つまり、写真は、その技術的な差異があまりでにくいがゆえに、逆に、その人の考えている「美」そのものが一枚の写真となって現れてくるものなのでは?と思えてならない。
 常に「美」を追求するアーティストにはそれぞれの「美」の尺度があり、それが写真にも素直に現れてくる。料理でも同じ。何でも食べられればそれでいいという感覚の人に、アートはできないだろうし、またそれをやる資格もないと思う。
 「衣食足りて礼節を知る」ということばがあるが、これは、着るものと食べるものがなければ礼儀も何もへったくれもないという意味であると同時に、人間に最低限必要なものは、礼儀と節度だとも言っているのだろう。衣食住が人間としての最低限のノルマだとしたら、音楽や美術などのアートは、ある意味で「余裕」が作り出すもの。これを、人は「情操」ということばで言い表そうとするのだが、私には、この「余裕」こそが「人の心」そのもののような気がしてならない。余裕のない社会や家庭は、人間から「人の心」を奪い取ってしまう。余裕のある政治が作り出す社会は、それだけで美しい。親の心に余裕のない家庭には、「人の心」は育ちにくい。
 人間は、その人が持っていないものを表現することは絶対にできない。それは、技術以前の問題。技術は覚えていくもの。しかし、感覚は覚えていくものではなく、その人の心の中に育てるもの。常に、「美」という尺度とアイ・フレームで世の中を見ていなければ、自分自身を美しくすることもできないし、自分自身の存在を世の中に美しくコミットしていくこともできないだろう。
 時々自分が写した写真を見て思う。
 「私の心は本当に美しいのかな?」と。

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