AUGUST28のDIARY 『偶然性と必然性』

 
  先週私の新しいCDも無事でき、第2回目のキッチン・ライブもとりあえず成功してとりあえずひと安心というところだが、それでもやる事は次々に襲ってくる。仕事の合間に、しばらく滞っていたHPの更新をと書き始めると知り合いの作曲家から電話がかかてくる。聞きにいった現代音楽のコンサートの口直しに、帰り道一人でお茶をしているという。彼女いわく、今どきこんな音楽を高いお金を払って聴く価値があるのかしら?
 出し物はと聞けば、アメリカの現代音楽の古典的巨匠(この言い方も変だが)ジョン・ケージの作品だという。まあね、そうだろうなと私も思う。現代音楽とひと口に言ってもいろいろな芸風の作曲家がいるので一概には言えないのだが、ケージの場合、チャンス・オペレーションという偶然性に頼る作曲の技法をとることが多い人。彼の作った作品に、「4分33秒」という曲がある。4分33秒の間、ピアニストがピアノの前にただ座っているだけの作品。ピアノの蓋の開け閉め以外は何もしない。まあ、これが音楽と呼べるものなのかどうか疑問と言えば疑問なのだが、作曲家が音楽だと主張している以上、音楽作品であることに変わりはないのだと思う。ただし、それがどういう意味を持っているかということが一番重要で、この「4分33秒」の場合、演奏者は何もしなくても、そこにいる聴衆は何らかの音を聴いている。その「音」自体が音楽作品なのだという偶然性がこの場合の「意味」だという解説がいつもついてくる。ハア?
 考えれば、現代音楽にはこの「偶然性」にこだわった人がこれまでに何と多かったことか。作曲された譜面さえあれば、いつでもどこでも「同じ音楽」が繰り返し演奏できる十九世紀までの音楽作品に対するアンチのような考え方が、この偶然性にこだわる根拠のように私には見受けられるが、私がこの偶然性に疑問を感じるのは、この「4分33秒」のような作品の偶然性には、作曲者や演奏家の意図が本当に反映されているとは到底思えないことだ。たとえ楽譜があろうがなかろうが、音楽にはそもそも偶然性がつきものなのだと私は思っている。タイや台湾の山奥の住民たちの音楽でも、ベートーベンの作品でも、そこに出てくる音には必ず作曲家や演奏者の必然的な意志や意図が如実に反映されている。だからこそ、その演奏や音楽に聴く人は感動し、納得することができるのだと思う。どんな音楽でも、二度と同じ表現や演奏はできないのが音楽。CDやレコードに刻まれた音は、ある意味「版画」のような意味あいのものでしかないのではないかと私は思っている。それならば、レコーディングされた「音楽」でしか表現しない音楽家の音楽は音楽ではないのかといった議論も出てくるかもしれないが、私は、そうした音楽家は、「版画家」ではあっても、「画家」ではないような気がする。CD盤やレコード盤は、あくまで複製された音楽のコピーでしかないのではないのか?そんな気さえしてくる。それが、たとえ室内であっても、コンサートホールであっても、ライブハウスであっても、生身の人間がある意図をもって必然的に出す音だけが、音楽の本当の意味を伝えているのではないのか?
 こうした考え方が極論なのか、暴論なのかは私にもわからないが、今日私の知り合いが聞きにいったケージの音楽に、彼女が必然的な意味を感じなかったことだけは確かなようだ。必然性のない音、必然性のないことばに、人間は誰も納得しないし、ましてや感動なんかできるわけがない。他人まかせ、状況まかせだけの偶然性に、必然的な意味は見い出しにくいだろう。クラッシックの演奏家がアドリブ演奏を不得意とし、それを軽んじているのは、楽譜に書かれたものにしか意図や意味を見い出そうとしていないからだと思う。しかし、楽譜にすべてが書きあらわせないことは作曲家自身がよく知っている。楽譜も、台本も、料理のレシピもあくまで、それは「道しるべ」や「地図」みたいなものであって、それがあると確かに「道」には迷わないかもしれないが、自分の力で目的地に辿り着いたことにもならないし、自分で道を作ったことにもならない。「道」は、あくまで自分の力で切り開いていくべきもの。楽譜に書かれた通り、台本に書いてある通りにセリフを言っても、レシピ通りに料理を作っても、それを表現する人の必然的な「意志」がない限り、誰もその音楽や芝居、料理に感動することはないのではないだろうか?
 百人いれば、百通りの意志が、百通りの道があるはずなのに、なぜに、みんな同じものを求めたがるのか、それが私には不思議でならない。

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