JULY4のDIARY 『夏の朝』

 
  朝方、外に出る。一日のうちで最も温度の下がる時間帯だが、夏の朝はどこか空気に湿り気を感じずにはいられない。まったく風のない日でも、どこか海の方から潮風が漂ってくるような気配を感じるのが夏の朝。ゴミを出しに、集積所に向う途中、階段で新聞配達の人と出くわす。彼が、この夏の空気を運んできてくれたのだろうか?
 冬の朝に感じる枯れた木立と土の間から香るたき火の後のようなすえた匂い。それとはまったく正反対の夏の朝の湿り気。香りと記憶は、いつもどこかで連動している。ここ数年海水浴などすっかりごぶさたしている私でも、子供の頃の海辺で感じた潮の香りと砂の感触が夏になるたびに蘇ってくる。
 そう、夏の記憶は、いつも潮風と共にあるのかもしれない。東京の山の手に生まれてこの方ずっと住みついている私のまわりから海は遠い。それでも、夏の夕方、風の影響か、突如潮風の匂いを感じてびっくりすることがある。どうせ東京湾から運ばれてくる潮風なのだろうから、いつも伊豆で感じるあの爽やかな潮風とは大分違う、どんよりとした湿り気を帯びた風だ。それでも、「ああ、東京のすぐそばは海なのだな」と思わず感慨にふける時がある。まだ梅雨は終わってはいないが、外の空気は、もうすでに夏になっている。
 人間は、季節をいろんなもので感じる。太陽の昇る角度は日々違う。そして、高い太陽の夏と、遠慮がちに照らす冬の太陽とでは、私たちの心に与える影響も大分違うのだろう。この季節はクチナシの花があちこちで咲いている。春先に咲き乱れていた沈丁花のほのかな甘さと比べると、クチナシの香りはとても強烈だ。そして、夏が過ぎてしまえば、今度は木犀の花が、まるで冬の予感と過ぎ去った夏を悲しむように、どことない切な気な芳香をはなち始める。
 そう、香りは季節をめぐる。そして、人間の心もめぐる。
 最近、夏のキッチン・ライブのためにいろいろな豆料理を試している。昔は、それほど豆が好きではなかった私だが、豆腐や納豆を好むようになってから、豆料理にもとても興味が沸いてきた。豆料理はとても手間がかかる。とにもかくにも、豆を一晩つけておくところから始めなければならないからだ。今熱心に試しているのは、西洋料理ではよく使われるひよこ豆だ。日本の大豆、小豆とは違い、あまり匂いが強くはない。和菓子屋さんや豆腐さんの前を通ると、よく大豆の強い匂いを感じることがあるが、このひよこ豆にはそれがない。だからこそ、西洋料理で使いやすい食材になっているのかもしれない。お米と混ぜてみたり、トマトと混ぜてみたり、バター味、醤油味、ガーリック味など、いろいろに試してみたが、やはり一番オイシイのは、豆そのものを煮て裏ごししたものを練って食べる食べ方だ。多少の塩あじだけで本当においしい味になる。
 やはり、素材そのものがよければあまり奇をてらわない方がいいのかもしれない。料理を作る人も、音楽を作る人にも二通りのやり方があるようだ。あまりアレンジをせずに、そのままの形をストレートに出して勝負する人。片や、素材の存在をまったく感じさせないほどに創意工夫、アレンジに命をかけていく人。どちらが正解で、どちらが間違っているなんてことは言えないのかもしれない。どちらがよりオイシイかとか、どちらがよりウマイかといったところが問題なのではなく、どちらがより人間として感じるものを得ることができるのか?私は、最近、そんなことを判断の基準にしているような気がする。
 朝という時間は、人間が最も自然を身近に感じられる時間なのではないだろうか?一日のうちで自然が最も無垢になる瞬間、時間。その時間に向き合う時、こちらの心の中も自然と無垢になっているような気がする。まるで自分が赤ん坊だった時間と空気がそのまま今の時間に置き換わっているような気さえする。夏の朝、そんなことを考えながら、大気の湿り気を胸の中に吸い込む瞬間がたまらなく好きだ。

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