JULY30のDIARY 『アバウトさの勧め』

 
 私は、基本的にアバウトな生き方が好きだ。では、性格がアバウトかと言うと、それほど極端にアバウトでもない。A型特有の几帳面な性格さから来るものなのか、時間にはかなりシビアだ。約束に遅れるのをかなり嫌う性格だから、少なくとも約束の時間の30分ぐらい前には着いていないと気がすまない。学生時代の頃の試験勉強も試験の3日前にはすべての用意がすんでいないと気がすまないような性格でもあった(小学生の頃は、明日持っていくものをすべてランドセルに詰めていないと寝られないという性格でもあった)。
 ただ、私は完璧主義者でも何でもないので、自分のやることが自分の思う通りにいかないからといって、イライラしたりすることはない。どうせ、人生なるようにしかならないといったアバウトさを常に持っている。予定通りのレールを歩いていくような人生はこれまでも歩んでいないし、多分これからもそうだろうと思う。人生なんてのは、それこそ瞬間瞬間に変っていくものだし、明日の一つの出会いでガラっと変ってしまうことだってあるのだから、こうしなければならないといった自分に対するプレッシャーもあまりない。そういう意味では、かなりアバウトな性格なのかもしれない。線のひき方から、家具の位置まで、自分の思う通りに揃っていないと気がすまないような人もいるが、私はけっしてその類いの人間ではないと思う。自分が居心地さえよければ、どんな環境にも適応できるような気がする。
 音楽っていうのも、本来、かなりアバウトなものだったのではないかと思う時がある。最初から形や型があったものではなく、人間の感情のおもむくままに、音は自由に出されていた。そんな気がする。宗教的な目的で音楽が使われていた時代があった。古代の呪術はすべて音楽を伴い、そして、人間の病気を癒すために音楽が使われていた。労働のための音楽もあったはずだ。単純なリズムの繰り返しや、労働歌のようなものを口ずさみながら、労働にいそしんでいた時代も長くあったはずだ。でも、そうしたモノは、それほど決められた型で拘束されたものではなくって、かなり自由な、ある意味アバウトな音楽だったのではないかと思う。常に即興の入る余地を持った音楽。それが、本来の音楽のあり方だったのではないかと最近よく思う。
 クラッシック音楽は、いつの頃からか、こうしたアバウトさ、即興性を嫌うようになり、楽譜の忠実な再現にその目的を移行していったような気がする。パガニーニがヴァイオリンの技巧を、リストがピアノの技巧を極限まで高めていったのかもしれないが、それぞれの音楽の可能性は本当に高まっていったのだろうかとも思う。クラッシック音楽は、自由とアバウトさを嫌う音楽として、どんどん狭い世界の中に閉じこもろうとしてしまっているような気がする。クラッシック音楽に即興性がないということ自体、本来はおかしなことだ。バロック音楽だって、ロマン派のヴィルトゥオーゾたちだって、かなり自由に音楽を演奏していた。完璧に楽譜を再現することが音楽、といった考え方も本来はなかったはずだ。それが、いつ頃から消えてしまったのだろうか?
 人間は、本来かなりアバウトな生き物なのではないかと思う。一人一人の性格も行動も違うのが人間だ。だからこそ、明日なにが起こるかわからないのが人生なのだし、それを、いつも予定調和のような形で生きようとすること自体がおかしいのではないだろうか。完璧主義者の人たちの陥りやすいワナは、一つ一つの結果にこだわり過ぎることだ。きちんと正確に真直ぐな線が書けなければ、次ぎの線を書くことができない。今日できなければ明日やればいいさといったラテン的なアバウトさがないと、人生の楽しみも半減するのではないだろうか。常に、他人と即興的にコラボレートしながら音楽を楽しむ、まるでジャズのような生き方の方が人生よっぽど楽しいのになとも思う。間違った音を一つでも出した瞬間声をあげるようなクラッシック音楽に、どれだけ音楽の楽しさが残されているのだろう。ミスが一つあろうが二つあろうが、音楽の本質は変らない。アバウトでありながらも、自分の主張ができる人間の方が、常にミスのない生き方をする人よりもよっぽど説得力があると思うのは私だけだろうか?

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