JUNE 7のDIARY 『ペットを飼うということ』

 
  ウチには、今年22才になる老ネコがいる。幸い、彼女(ネコ)は、心身共に健康で、未だに子猫のように飛び跳ね、そして何でも食べる。
 猫又ということばがあるが、これは人間を食べる恐ろしい妖怪の一種のこと。年とった猫は、みんなこの妖怪になるという話しを聞いたことがあるが、ウチのネコは、まだ妖怪にはなっていない。でも、一説には、猫又とは人間のことばをしゃべるネコという説もある。こっちの方がより恐ろしいが気がする。もし、ウチのネコが人間のことばをしゃべれたら、私の悪行の数々を全部暴露してしまいそうだからだ。
 普通、犬や猫は、十才ぐらいが寿命の目安で、それを越すと一般的には長生きの部類とされる。もちろん、これにも個体差や種類の差がある。大体において血統種よりも雑種の方が長生きなのは、優勢遺伝の賜物だろう。ウチのネコが雑種でよかったと思う今日この頃だ。
 ペットを飼う人の喜びも悲しみもこの寿命というものに多く左右される。どだい、生き物を飼うのだから、それが死ぬまで面倒を見るのは当然のこと。となれば、ペットの最後を看取るのは飼い主の勤めであり義務でもある。これを最初から見越して、なるべく寿命の長いペットを飼おうとする人もいる。まあ、この際、どのペットが長生きで飼いやすいかの議論は他の人たちにまかしておくが、私にとって私の飼い猫はほとんど空気同然の存在だ。それじゃあ、夫婦を同じじゃないかと言う人もいるかもしれないが、ある意味、そうとも言える。ただ、夫婦だったら私がいろいろ面倒を見てもらえることもあるのだろうが、ペットの場合、上げ膳据え膳なのは私の方ではなくペットの方だ。しかも、私は、このネコのおかげで長い旅行に行くこともできない。でも、こんな悩みは、すべてのペット・オーナーがかかえている問題なので、私一人が「大変だ」と言っても始まらない。このネコ、「空気同然」なので、時々その存在をまったく忘れてしまうことがある。パソコンの前で仕事をしていたり、TVを見ていても、いつの間にか私の脇に座りすやすやと寝ていたりする。何か変な音がするなと思って辺りを見回すと、彼女がいびきをかいている。それで初めて、「ああ、いたんだ」と気づいたりすることもある。
 そう。ネコも年寄りになるとよくいびきをかく。時々寝言も言う。もちろん、ネコ語なので、何を言っているのかはまったくわからないが、時々、人間のことばを寝言でしゃべりだすのではないかと思う時もある(そうなったら、ホントに猫又だ!)。
 よく、ペットを飼うとそのペットのおかげで人間の心が癒されるというようなことが言われる。確かに、そうなのかもしれない。ただ、何が癒しかは人によって違うので、ペット=癒しというような単純な図式で割り切るわけにもいかないような気もする。癒されるはずのペットが邪魔になり、平気で捨ててしまう人もいるのだからそう簡単な存在なのでもないだろう。おそらく、ペットを飼うということで一番大事なことは、ペットの「生と死」とどうつきあうかという問題なのではないだろうかと思う。世の中にあるペットの大半が人間の寿命よりは短い。だとしたら、おおかたの場合、ペットの方が飼い主よりも先に死ぬ。人間にとっても一番大事なのは「生と死」の問題。その問題を考える上でもっとも身近なサンプルがペットなのかもしれない。
 昔の家は、ペットというような意識もなく、家の中にいろんな生き物を育てていた。鶏、犬、猫、亀、そして、いやおうなく家の中に同居していたネズミやヘビ、カエル、ヤモリなどのは虫類。そして、人間たちも、小さな赤ん坊から七十、八十のおじいちゃん、おばあちゃんまでが一つの家の中に同居していた。そんな環境には、いつも「生と死」がごく身近に繰り返されていたはずだ。そして、そこから、私たちは何かを学んでいくことができたはずなのだが、今の家庭や環境には、あまりにも「死」の臭いがしない。それが無理に遠ざけられているような気がする。だからこそ、「死」に無知になり鈍感になって、平気でイヌやネコを殺してしまうことができるのではないだろうか。
 どんなペットを飼う場合でも私たちが最も大切に考えなければならないことは、その「死」を体験しそれを乗り越えていくこと。
 ふと、そんなことを考えている私の横で、ネコが起き上がり私にエサを要求している。

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