JUNE24のDIARY 『五感を必要としない未来は来るのか?』

 
 近所の道ばたでばったりと知り合いに出くわす。最近ごぶさただったA氏。彼は同じマンションの住人で、写譜を仕事にしている人。久しぶりなので、「仕事どうですか?」と尋ねると、彼いわく、「サッパリですよ。最近どんどん仕事が減ってきて、こりゃヤバイかも」。彼は、その道のベテランで、多くのミュージシャンやレコード関係者からも信頼の厚い人。それでも、仕事はサッパリだと言う。
 写譜という仕事は、演奏者が演奏する楽譜を手書きで作る人のことを言うが、ここ最近パソコンで音楽を作る人が多いせいか、楽譜そのものの必要性が失われてきているのも紛れもない事実。彼は、またこんなことも言っていた。「最近のアレンジャーや作曲家は、楽譜を読めない人が多いから」。
 音楽をやっていて楽譜を読めない。音楽の世界をあまり御存じない方には信じられない話かもしれないが、これも紛れもない事実。音楽を職業にしていながら、楽譜を読めない、書けない人は最近数多くいる。パソコンで音楽を作れるようになる前は、音楽は楽譜というものがあって初めて成り立つものという常識があったが、最近では、その常識は完全に崩れつつある。パソコンのキーボードから音楽を作っていく、あるいは演奏していくことが常識となりつつある現状では、彼のような職業の人が活躍する場所はどんどん狭められているに違いない。
 現在、TVやCD、ゲームなどから聞こえてくる音楽の大半は、シンセサイザーやサンプラーといった、生の楽器の音ではない音源で作られている。聞こえてくる音が、生の楽器で作られたものか、あるいは、それ以外の音源で作られたものかを単純に耳だけで判断するのは難しい。それぐらい、現在のシンセやサンプラーの性能は高度になってきているのだが、問題はそれが区別できるかできないかの問題ではない。もはや、それが当たり前になっているという現在の状況が果たしていいのだろうかという単純な疑問だ。音楽は楽器が作るものという常識は、現在のデザインがほとんど手書きではなくパソコンを使って行われるもの、写真はデジカメで撮られるもの、すべての香料は、自然の素材ではなく化学的に合成されるものといった常識が世間一般の常識になっていることとほとんど同義なような気がする。
 環境運動が盛んな現状でも、人間はどんどん自然から遠離っていくことに次第に無感覚になっている。クチナシの匂いをトイレの芳香剤の匂いと思うような常識や、ファミレスのおおざっぱな味でないとオイシイと思わないような感覚は、人間をどんどん自然から遠ざけていくだけなのではないだろうか。それは、それで新しい常識が世の中に確立するだけ。そういう考え方も一方であるにはあるが、それならば、極論すれば、音楽も、楽器やシンセサイザーを通して聞く必要すらなくなってくる。脳の聴覚野の神経に直接音の電気信号を送りさえすれば、人間は、音や音楽を「聞く」ことに何の差し障りもない(それに近いことを、聴覚障害の人に音楽や音を感じさせるために「骨振動」という方法で行なうことがある)。その結果、人間は耳という器官を持つ必要すらなくなってくる。果たして、こんなSFチックな世界が将来的に実現するのだろうか?
 ある意味、それは起こり得る世界の一つのシミュレーションではあるが、問題はそれを人間が本気で望むかどうか。人間に本来器官として備わった五感というものを、人間がどれだけ大事に思っていくかどうかで私たちの将来の姿は変ってくるのだと思う。耳も必要ない。鼻も必要ない。口も手も必要としない、そんな世界を果たして人間は望むのだろうか?
 ヒーリングとやらを本気で人類が考えているのだったら、本来人間が持っている最大の武器である五感というものの本当の使い方を真面目に考えるべきなのではないかと思う。美しい色を美しいと感じ、美しい音を本当に美しいと感じる感覚が人間に与えられた最大の特権であり利点なような気がするのだが....。

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