JUNE15のDIARY 『i am sam』

 
  今でこそ死語に近いような表現なのだが、誰かと誰かが結婚しようとしている時に、「家柄が違うので...」みたいなことを言い出す人間がたまにいたりする(現実に、自分の身近でもそういう例はあったのだが)。日本のような学歴偏重の国では、履歴書や身上書に書かれてあるような表面的な事柄が重んじられて、その人の中身とかを二の次ぎみたいに考えている人もけっこういるのかもしれない。今上映中の『i am sam』という映画を観て、ふとこのことばを思い出してしまった。
 映画の内容は、家柄とは何の関係もない。ショーン・ペン扮する7才程度の知能しかない知的障害の父親(おまけに、シングル・ファーザーだ)が、自分の娘をちゃんと養育していかれるかという所でさまざまなドラマが展開されていくのだが、この映画を観ていて感じたのは、親子のバランスということだった。娘をこの父親から無理矢理引き離そうとする周りの人間たちは、ロクな仕事もできない知恵遅れの父親に子供がきちんと育てられるわけがないと主張する。確かに、いっけん正論のようにも見えるが、極端な話し、これは、童話にある、白鳥の子供を育てるアヒルの親の話し(「みにくいアヒルの子」)ではないのかと思った。この童話では、アヒルの親は、白鳥の子供だという認識はなかったわけだから、白鳥としての育て方に関してはまったく無知だったわけだ。しかし、白鳥は立派に大人の白鳥に育っていく。よく昔から「トンビが鷹を産む」というような事も言われるけれども、親子というのは、それほど完全なバランス関係にある必要はないのではないかと思う。
 親のIQが130で、子供が150なんていう親子は滅多に存在しない。親が公務員なら子供も公務員というような例は、親が商売をやってれば子供がそれを引き継ぐというだけのこと。逆に、親があまりにも立派過ぎて、子供がその重圧から逃れようとまったく正反対のことをするという例は世の中に山ほどある。この映画の親子のように、知的には確かに7才程度のものしか持っていない人間でも、すべてが7才であるわけではない。以前、『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じていた知的障害者は数字に関して天才的な才能を持っていた。そして、この映画の主人公のサムも、ビートルズの音楽に対する知識と愛情は人並みはずれている。別に、ビートルズの音楽のことをどれだけ知っていても社会生活の足しにはならないかもしれないが、彼は、その音楽の歌詞の意味を的確にとらえている。つまり、人間としての情緒はけっして7才児ではないということだ。よしんば、それが7才児であっても、酒やギャンブルに溺れ、子供を虐待する親よりははるかにマシだ。
 私は、いつも思うのだが、子供という存在は、別に親子のバランスで考える必要はないのではないかと思う。子供が知識を得るのは社会全体から。愛情を得るのは親から。その程度のバランスで十分なのではないかと思う。つまり、親の役目は子供に対する愛情。これさえあれば、親の役目は十分果たせる。それがない家庭ほど、「家柄」とか「学歴」だとか、まったく愛情とは関係のないことにその責任を転嫁しようとする。親から何の愛情ももらえなかった子供は悲劇だ。愛を持つことを忘れた人間は、誰も愛せないからだ。
 それにしても、この映画の中のショーン・ペンの演技の素晴らしいこと。私は、映画を観ている間中、涙腺がこぼれっぱなしだったが、それは、ひとえにこのショーン・ペンの演技のせい。ストーリーに泣いたというよりも、彼の演技に泣かされたと言った方が正しい。彼の演技力には脱帽するしかない。劇中にサムの友人たちが4人登場する。4人とも、知的障害者という設定なのだが、そのうちの2人は本当の知的障害の人たちだと言う。しかし、彼らも立派に「演技」していた。俳優が演じる「知的障害者」と、本当の知的障害者が演じる「知的障害者」に何の区別がないのは、彼らの演技力がそれだけホンモノだという証拠だろう。ぜひ観てもらいたい映画だ。音楽が抜群。ビートルズの曲がたくさん本当に効果的に使われている。

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