UNE10のDIARY 『ストレスと愛』

 
 以前、このダイアリーに「私はストレスを感じたことがない」と書いたら、それに対していろんな人からいろんな反応がきた。正直言って、そういう反応が返ってきたこと自体に私は驚いているのだが、この現代社会ではストレスを感じないということの方がオカシイと思われるのだろうか?
 ただ、私が言いたかったのは、世間一般で言うところのストレスで悩んだり、それにとらわれたりした経験がないというだけのことだ。もちろん、私も人並みにイライラしたり、思い悩んだりすることはちょくちょくあるのだが、それがストレスだとはまったく思っていない。ただそれだけのことなのかもしれない。
 試しに、ネット上にたくさんあるストレス度チェックなるものを6つほど試してみた。結果は、すべて「ノー・プロブレム」。でも、このストレス度チェックの問題を見てみると、要するに、ポジティブ・シンキング、前向き思考の人はすべて「ノン・ストレス」と診断されるようになっている。
 「そうか、前向きに考えていればストレスは感じないのか?」。  
 改めて自分の思考方法を考えてみるが、やはりそういうことなのだろうと思う。今お金がなくったって、「まあ、いつか手に入るわ」。今、悩んでいることがあったって、「いつか解決するわ」。すべてがこんな調子だ。だから、ノン・ストレスでいられるのかもしれない。
 とは言っても、こんな私にもひっかかる問題の一つや二つはいつもある。イライラすることも山ほどある。人間というのは、そういう心のどこかにひ「ひっかかる問題」があると、精神のバランスを欠いて不安定になったり、不幸せだと感じたりするものだが、私の場合、どこかそこに一種の開き直りがあるのかもしれない。「どうせ、どうあがいたって人間が死ぬんだぜ」「いざとなれば、人間は水だけでも一月ぐらいは生きていかれるさ」。こんな開き直りがあるから、いつも前向きでいられるのかもしれない。
 「でもね、そんな風に生きられるのも、人間関係の軋轢やホントの意味での金銭的苦労をしていないからだぜ」。そういう声も聞こえてきそうな気がする。
 確かにそうなのかもしれない。現に、私のこれまでの生き方には、そうした人間的な軋轢や金銭的な苦労は世間一般の人よりも少なくなかったのもしれないし、そうでなかったのかもしれない。人間というのは、それほど自分自身を客観的に見れるものではないから、他の人と比べて自分がどうだったのかといったことは容易にはわからない。ただ言えるのは、自分がそうしたストレスがありそうな場所に自分の身をあえて置いてこなかったということ。これも、自分の生き方そのものだ。幸い、私はサラリーマン経験がまったくない。満員電車に毎日揺られて通勤した試しがない。上司とやりあったことも、部下に気を使ったこともない。しかし、似たような状況は何度も経験している。要は、私の開きなおり。満員電車に毎日揺られるぐらいなら、毎日水とパンだけで生きていた方がマシ。そんな自分の美学(これが美学かどうかは疑問だが)に忠実に生きてきただけ。その結果が、人よりもストレスを感じない環境を作ったということかもしれない。
 今日、いつも私がライブをやる赤坂のお店で新しく就任したシェフの新メニューを披露する特別ディナーがあって、それに招待されて行ってきた。
 すべて野菜だけで作られたコース・メニューはどれも感動するほどおいしかった。ディナーの途中に、このお店の社長の阿木曜子さんが、新しいシェフを壇上に立たせて、彼が書いた「詩」を朗読した。さすが阿木さんと思うような名口調の朗読もだが、私が感動したのはその「詩」の内容。野菜をこよなく愛し、その愛する野菜を此の上なくおいしい料理にして一人でも多くの人に食べさせてあげたいという愛情がその「詩(野菜に捧げるオマージュとでも言えるような詩だった)」に、そして出された料理の一品一品に溢れていた。おそらく、この新しいシェフも私と同じようにあまりストレスを感じない人なのではとふと思ってしまった。別に、料理を作るからではなく、これほどまでに愛するモノを持っていて、それを表現する場と技術が与えられている彼に、ストレスということばは似合わない。振り返って、私にも「愛するモノ」がたくさんある。そして、それを表現する場と技術がある。もうそれだけで、私はストレスとは縁遠い人間なのかもしれないと思った。

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