MAY 5のDIARY 『音楽の意味』

 
  喫茶店やレストランに入ると必ず音楽が聴こえてくる。別に、飲食店に限らず日本中どこに行っても音楽が聞こえてこない場所を探す方が難しい。これが果たしていいことなのだろうかといつも思う。
 少なくとも、音楽にとっていいことではないことは確かだ。どんな音楽にも始まりがあって終わりがあるはずなのに、BGM的に聞こえてくる音楽にはそれがない。いつも聞こえてくるのは音楽の「断片」だ。自分の意志に関わらず、どんな時でも無遠慮にその「断片」が耳に飛び込んでくる。それを作った人や、演奏している人たちは、本当は、こんな場所で、こんな音響で聞かれて欲しくないと思っていても、音楽はそんな意志とは無関係にいつでも無遠慮にたれ流しされてしまう。
 エジソンが蓄音機を発明してから今日までさまざまな音楽鑑賞ソフトの変遷が続いている。コンサートやライブに行かずとも気軽に音楽を楽しめるという意味では、CDもアナログ・レコードもそれなりの価値はあるのだが、それでもたかだかCDやレコード、MDなどの小さなパッケージに「音楽」そのものを納めきれるものではない。しかも、それを作る作業に関わってきた私には、その小さなパッケージにはたくさんの「ウソ」が詰まっていることを知っている。
 「あんなモノ、ホントの音楽じゃないよ」。そうハッキリ言える。大体、音楽がいつも同じ形で「再生」されるということ自体が何かおかしい。サンプラー、シーケンサーでいつでも同じ素材を繰り返し演奏することに慣れた若い世代の人間には多少アナクロ的な考え方に聞こえるかもしれないが、あくまで、音楽は「時間と共に消えてしまう」ものという気がする。音楽は、その場所、その空間、そのプレーヤーが作り出したものを「その瞬間」に楽しむものが音楽ではないかと私は思っている。
 ここ数年ライブ演奏を続けているが、それは、一つにはレコーディング・スタジオで作り出す「ウソの音楽」に食傷してしまったこともあるし、ある意味、本物の音楽を取り戻したいという気持ちがあったのも確かだ。たとえ少人数の客の前であっても、音楽は、演奏する人間と聴く人間との「対話」があって初めて成り立つものと思っているからだ。ライブ会場には、さまざまなコミュニケーションがある。プレーヤー同士のコミュニケーション。演奏している人間は、演奏を通じてお互いに常に「対話」している。プレーヤーと客の「対話」。客は何も演奏者には話しかけないが、演奏者と客は、プレーの最中にも確実に「対話」している。たとえ同じプレーヤーでも、客が変れば演奏も変る。ある意味、プレーヤーの演奏は、客が作っているとも言える。そして、最後に、客同士の「対話」。別に、客同士が演奏中にペチャクチャおしゃべりをしているというわけではない。しかし、客同士のコミュニケーションもライブ会場には確実に存在する。
 こうしたさまざまなコミュニケーションがあって初めて音楽というものは、音楽としての「意味」を持ってくる。こんなことは、バッハが何年に生まれて、ボサノバは何拍子の曲で、などといった「知識」や「教養」とはまったく無関係なものだ。こういった音楽の本質的な部分こそ、本当は学校の音楽教育の場で教えて欲しいと思っているのだが、おそらくそんなことを教えられる教師はほとんどいないだろう。彼らは、ベートーベンの音楽のスタイルや生年月日は教えられても、彼がなぜ『エリーゼのために』という楽曲を作りだせたかということまでは教えられない。一生涯、自分がピアノを教えていた生徒に恋をし続けたベートーベンと、『愛こそすべて』と歌うビートルズの歌と、音楽の意味においてはそれほどの違いはない。今魚料理を食べている最中の人間に「さかな、さかな、さかなを食べよう」という歌を聞かせることほど無意味なことはない。アルトゥール・ルービンシュタインという名ピアニストは、若い時に、ある貴族に雇われて、愛の営みの最中にベッドの脇でBGMとしてショパンを弾かされたことがあるというが、これほど音楽をバカにした人間(貴族)も珍しいのではないだろうか。音楽は「聴く」ものであって、「流す」ものではない。
 日本中からもう少し「たれ流し」のBGMがなくなってくれさえすれば、音楽の本当の意味を理解する人が少しは増えてくれるのではと期待するのは私だけだろうか。

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