MAY 23のDIARY 『因果応報』

 
  夜、外を歩いていてやけに月が気になった。まだ満月にはちょっと早い(27日のはずだ)が、その陰影が何とも不思議な形をしていてふと足を止めてしまった。昔、ウサギが餅つきをしているという風にさんざん聞かされて育ったせいか、今でもそんな気がしないでもない。でも、今日の月はかなり変な形をしていた。
 今読んでいる本に陰陽道のことがたくさん出てくる。別に宗教の本でも風水の本でも、それらしき怪し気な本でもない。純粋に音楽のことについての本なのだが、音楽の基本である音階や倍音といったものの基本に陰陽道があるという中国の音楽の考え方に興味をひかれた。要するに数字の問題でもある。陰陽道の基本にある光りと陰の対立とバランス、すべての物事の基本にある五行説。その説の基本である「土・火・金・水・木」が音階の五音にすべて当てはまっていく。こうした、中国のペンタトニック音階の考え方から考えていくと、現在ある十二の音で出来上がっている音階のすべての意味もすっきり理解できるような気がする。どう理解できるのかは、もうすぐ書き上がる私の著作の中にきっと盛り込まれているはずなので、そちらを参照していただくとして、世の中、すべて数の原理でできているという大昔の人間の考え方は、もしそれが真理ならば今でもきっと当てはまるのだろう。
 音楽の協和、不協和の基本は、1:2という数の比率と、2:3という比率から成り立っている。これだけ聞くと、「何のこっちゃ?」と思う人もいるかもしれないが、これは、要するに、同じ音同士、オクターブの関係にある音同士、五度離れている音同士の響きが最も心地よいと定義してきた古代の人たちの音楽に対する根本的な思想だ。そう、思想だと思う。音楽理論というのは、科学であり哲学だからやはり思想に違いない。
 古代においては、宗教も政治も思想も人間の根本的な原理を追求した結果出てきたものなのだろう。その中に、陰陽道や儒教や仏教、キリスト教といったものがあったに違いない。中学時代、倉田百三の『出家とその弟子』という本を読んで、頭を脳天からぶち破られたような衝撃を受けた。「そうか、人間には業というものがあるんだ....」。まだそれほど世の中のことがわかっていない私にも、人間の因果みたいなものの摩訶不思議さや人間と自然の宇宙的な結びつきが何となく感じられて「わあ、こりゃうかうかしていられないや」と思ったものだ。まあ、何をうかうかしていられないのかは、その時はそれほどわかってはいなかったのだが、人間の業や因果ということに対してはかなり敏感に考えるようになっていったのかもしれない。
 日本という国にいると、仏教的な意味での業や因果は何となくすんなり理解できるのだが、キリスト教的な意味での「原罪」ということになると、おそらく同じようなことを言っているとは思うのだが、若干理解に苦しむ時もある(カソリックでは、懺悔すれば何でも許されるという。考えれば、妙なレトリックだ)。ただ、そこにも数がある。イエス・キリストの弟子が十二人いる。うん、確かにここでも十二という数字は大事なんだなということがわかる。干支が十二であることとの因果関係はいまいちよくわからないが、十二という数字が、音階の基本的な数字であることとも見事に対応している。世の中に宗教と言われるものはゴマンとあるが、別にそのうちのどれが正しいのかは私にもよくわからない。ただ一つだけよくわかることは、政治も宗教も思想も人間が作り上げていること。しかし、その根本にあるものは地球という自然であり、宇宙の中の「数」の原理。
 まあ、こんなことを言い出すこと自体が宗教がかっているのかもしれないが、世の中には所詮人間ではどうしようもないこともゴマンとある。聖書の中に「バベルの塔」の話しがあるが、ああいう人間の傲慢さとおごりにまつわる話しはあらゆる宗教の聖典にもあるのだろう。
 「天にツバすれば、そのツバは自分に帰ってくる」。まあ、そういうことなのだろう。人間である以上、常に正しい行動ばかりとれるわけがない。それが、業であり、「原罪」なのだろうから。でも、できれば自分以外の人にツバは吐きたくないものだと思う。他人に対するツバは、おそらくその数百倍のお返しになって帰ってくるだろうから。

ダイアリー.・トップへ戻る