MAY 22のDIARY 『仲間を持つ喜び』

 
 今、自分のアルバムを作るためのレコーディングを少しずつ進行させている。
 前回のアルバムから1年以上の月日がたってしまったが、今回は、ライブのために書きためてきた作品を中心にレコーディングしている。いずれの曲も、ライブで演奏しお客さんの評判がいい曲ばかりだし、自分としても大好きな作品ばかりだから、とても楽しくレコーディング作業を続けている。しかし、こうした作業を続けて思うのは、私はいい仲間に囲まれているんだなということだ。私のライブやレコーディングを支えてくれている人たちは、いずれも音楽的に優れた人たちばかりでなく、人間的にもとっても信頼でき、かつ私という人間をとっても大事に支えてくれている人たちばかりだ。年齢的には、みんな私よりも若い(かなり若い人もいる)。しかし、音楽を作る作業はお互いの信頼関係がもっとも大事なことで、そんな作業に誰が年令が上かとかキャリアが上だとかいったことはまったく関係がない。お互いを認めあうことでしかモノは作っていかれない。心からそう思う。
 先日、私の古くからつきあっているアーティストのレコーディングで演奏した。彼の音楽性や人間性を信頼しているから、私は彼の要求する音をなんとか出してあげるために必死に努力する。それが、どんな無理難題であっても、彼が信頼して私を使ってくれている以上、その気持ちに報いなければと思う。それと同じような思いを、私のレコーディングにつきあってくれている仲間たちの一人一人からも感じる。だから嬉しい。損得抜きの彼らの愛情を感じるからだ。
 以前にも言ったことだが、「愛はもらうものではなく、与えることだ」というある映画の中のセリフが私の頭から離れない。「与える愛」。見返りを求めない愛ということかもしれない。自分でもそうしたいと思う。そうしているつもりだ。でも、時々そうでもないのかなとも思う。愛というのはあくまでも気持ち。目に見えない無形の心であるからこそ、それが相手に届くには、電波の受け渡しと同じように、同じ周波数を受け渡すことのできるアンテナをお互いが持っていなければならないのかもしれない。それがない限り、愛をもらう、与えるの行為がほとんど無意味なものになってしまう。
 私は、二十代の頃、アメリカで暮らした経験を持つ。もちろん、そんな人間は今どきごろごろいる。でも、私が体験したアメリカで感じたものは、決定的に日本と違う感情からできあがっている社会だった。すべてにプラグマティックで、すべてに合理的なアメリカ社会は、日本流に言う「義理と人情」を徹底的に排除していく社会でもあった。一度こんなことがあった。渡米2年目の冬、私は、家族の一人の訃報を突然国際電話で知らされた。すぐにでも帰国する必要に迫られた。しかし、その当時学生の身分の私には、余分な持ち合わせはまったくなかった。片道の航空運賃さえあればよかったのだが、今すぐにでも飛行機に乗らなければならない時に格安の航空チケットなど手に入るはずがない。正規の運賃は、とてもその時の私の手の届く金額ではなかった。そんな時、お金の無心ができるアメリカ人の友人など誰一人としていない。思いあまって、つい1週間前に知り合ったばかりの日本人カップルの家を訪ねた。彼らは、何の躊躇もなく心よくお金を貸してくれた。
 たまたま、なのかもしれない。しかし、その時、私が感じたのは、同じ感情の起伏を持つ同胞の心だった。未だどんな人間かも相手にはわかっていないはずなのに、何の躊躇もなく金を工面してくれた彼らの心がたまらなく嬉しかった。そのお金はもちろん、その後すぐに返済したが、彼らにしてみれば、ひょっとしたら、返ってこないかもしれないぐらいの気持ちはあったかもしれない。まだたった1週間のつきあいしかなかった相手。ただ単に同じ日本人だというだけで彼らは私を信用してくれたのだろうか?私がそれほど信用できる人間に見えたのだろうか?そうではないのかもしれない。「愛とは、与えることだ」。こんな風に彼らが思ったとはとても思えないが、しかし、彼らの心の中には、きっとそれに近い気持ちがあったに違いない。見返りを求めないからこそ、愛とは貴重なのかもしれない。  

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