MAY 16のDIARY 『ピアソラの音楽劇』

 
 「素晴らしい!素晴らし過ぎる!」。
 今日、渋谷のオーチャード・ホールでやっている、ピアソラの書いた音楽劇(かな?それとも、一種のミュージカル?オペラ?)『ブエノスアイレスのマリヤ』の初日を観に行っての感想がこれ。
 タンゴの巨匠ピアソラの作曲した唯一の舞台物だが、ミルバの歌声の素晴らしさや語りの人間、タンゴを踊る男女、9人のミュージシャンなど、限られた出演者の一人一人のすべての一挙手一投足にただただ圧倒されてしまった。コンサートでこんな感動を覚えたのは、ほぼ十年前に新宿のグローブ座で観たフィービー・スノー以来だ。あの時は、初日に観てから一週間の全公演をすべて観に行ってしまったほどだったが、今回も、時間さえ許せばそうしてみようかと思うほどだ。
 ふだん音楽を演奏したり、音楽について冷静に分析して論じているくせに、こういう舞台を観ると、もはやそんなふだんの職業音楽家としての自分はすっかりどこかに飛んでいってしまう。ただただ興奮して舞い上がっている自分しかいない。そんな状態で、今日の演奏のどこが良かったとかいった事をウマイことばで表現することなんかできやしないが、演奏中に感じたことははっきりと覚えている。
 何か「大人の音楽」を生まれて初めて体験したような感覚。
 これまでも、ジャズやクラッシックの一部、あるいはある一部分のロックにもこんな表現をしたことはあったような気がする。でも、今日のピアソラを歌ったミルバの表現力、そして、舞台に登っていた全員の表現を聴いていると、本当の「大人の音楽」っていうのはこういうことを言うんだなということが生まれて初めてわかったような気がする。私たちプロのミュージシャンの中には、「ピアソラの音楽を聴いてから音楽に対する見る目が変った」というようなことを言う人が大勢いる。それぐらい、ピアソラの音楽というのは、他の音楽家とはまったく違ったものを持っている。いや、これも違う。本当は、ピアソラがまったく違った音楽を持っているのではなく、ピアソラはただ本当の音楽をやっているだけなのかもしれないとも思う。それぐらい、世の中には本当の音楽をやっている人が少ないことの逆の証明なのか?
 タンゴという、ごくごく狭いジャンルの音楽でありながら、音楽の要素、演劇の要素、そして、文学などのすべてのアートがすべて「本当の形」で入っている音楽がピアソラの音楽なのかもしれない。 一つの舞台の中で、「音楽」「踊り」「演劇」をとてつもなくシンプルな舞台装置で見せていく。ただそれだけのことになぜこれほどまでに感動できるのか?
 演技者がウマイから?ミュージシャンが上手だから?演出が上手だから?
 とてもそんなことでは説明のつかないもっと根元的なものだ。それは、彼ら一人一人の中に「技術」と「心」と、そして何よりも演奏する「喜び」、演技する「喜び」があるからに違いない。本来、アーティストに必要不可欠なこれらのモノを持っていないアーティストがあまりにも多いからこそ、これらのすべてを持っている彼らの演奏や演技にこれだけ感動できるのかもしれない。
 振り返って、自分自身にこれらのすべてが備わっているかナ?と自問自答してみる。
 やめておこう。自分で言ってしまっては身も蓋もない。今日は、ただただ感激に浸っているだけでいいのだ。

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