MAY 14のDIARY 『エトワールの世界』

 
 今、渋谷の東急文化村でやっている『エトワール』という映画を3度も観に行ってしまった。最初は友人と行ったが、その時不覚にも涙してしまい、その後は、どうしてももう一度観たくて一人で二度も劇場に出かけた。
 パリ・オペラ座のバレリーナたちの練習風景とインタビューなどで構成されている一種のドキュメンタリー映画なのだが、この映画、作られたどんなドラマよりも断然面白い。何よりも、ナレーションも何もなく、エトワールを初めとしたいろいろな階級のバレリーナたちやオペラ座の先生たちなどの話しと練習風景、本番シーンだけで淡々と構成されているところがいい。「さあ、感動しなさい」的なお仕着せの演出が何もなく、彼らや彼女たちの肉声と肉体だけがひたすら画面に登場する。それを観ているだけで、彼らの鍛え抜かれた肉体の凄さ、そして何よりも彼らの精神力の強さが本当に伝わってくる。
 エトワールという名前で呼ばれる最高位の選ばれたバレリーナたち。そして、その後に続く、プルミエール・ダンスーズ、スジェ、コリフェ、そしてカドリーヌという完全な階級にクラス分けされた、一見、世の中とは隔絶された特殊な世界の出来事であるにもかかわらず、彼らの生き方は、私たち普通の人間の社会にもそのまま当てはまるものばかりのような気がする。同じ人間としての肉体を持ちながらも、その生きる過程において、選ばれて最高の位に到達する人、出来ない人にクラス分けされる世界は、特殊なバレエの世界だけに当てはまるものでもない。エトワールとなった勝者は、勝者としての重圧と社会的責任を負わなければならない。上に到達できなかった人間にも、その階級や立場それぞれの喜びや悲哀、そして苦労は同じように分配される。しかし、彼らはバレエを愛し、そこに人間を表現していく戦いを日常的に続けている。そんな彼らの姿は、単にダンサーたちの世界だけのことではなく、私たち普通の人間たちにもよく理解できる事柄だと思う。
 ある男性エトワールが映画の中で語っていたことばが印象的だ。「肉体表現であるバレエは、若い時ほど柔軟な体を使い多くのテクニックを使った表現ができる。しかし、肉体の衰えと共に今度は逆に精神的な表現に深みを増していく。この二つの互いに反比例するもののバランスをいかに取っていくかが問題なのだ」。
 このことばは、単にバレエという表現手段にだけ当てはまるものではない。すべての人間は、常にこの互いに反駁する肉体と精神のバランスに悩んでいる生き物だ。どんなことでも自由にできる若い肉体は精神を軽んじ、逆に老いた肉体は精神でその肉体的なマイナスをカバーしていこうとする。この二つが同じように成長していけないことに人間は常に悩みながら生き、そしてその悩みの中からいろいろなモノやアートを作りだしてきたのだろう。
 小さい頃から楽器をやっていた私も、若い時には、テクニックにしか興味がなかった。どれだけ早く指が動かせるか、どれだけ難しいフレーズを吹きこなせるか、そんなことにしか興味がなかったような気がする。一日に十時間でも十二時間でも楽器をやり続けられる肉体を持っていたその時に、音楽の中の精神的な深みなどといったものはわかりようもなかったのだ。いや、わかるフリはしていたかもしれないが、実際にそれが理解できていたとは到底思えない。今は、それを何となく理解できるような気がする。しかし、今度はそれを実行に移すだけの指の軽やかさが若い時と同じようにあるかと言えばそれははなはだ疑問だ。ただ、どちらが本当に音楽をやっているかと言われれば、今の方がはるかに音楽を理解できるし、その喜びも若い時の何十倍も感じることができるような気がする。
 しかし、しかしである。この映画『エトワール』の中にある肉体は、肉体そのものの美しさに他ならない。残念ながら、四十や五十を過ぎたバレリーナたちにこの「美しさ」を求めることはできない。考えてみれば、バレエやダンスという表現の世界は本当に残酷な世界なのかもしれない。本当に限られた時間の中でしか表現できないギリギリの人間の美がこの中には集約されている。この世の中にこれほど美しい肉体があるのだろうか、これほど美しい人たちが存在するのだろうかと思えるほどの彼ら、彼女らの美は、ほんの束の間の美でしかない。
 芭蕉は、常に、散りゆくもの、去りゆくものの美を歌っていた。散り急ぐ花ほど美しい。人間の肉体とはこんなにも素晴らしいものなのか、こんなにも美しいものなのかといった感動は、それがほんの一瞬のものであることを私たち人間が本能的に知っているからこそ心の奥底から伝わってくるものなのかもしれない。

ダイアリー.・トップへ戻る