APRIL 6のDIARY 『美しい生活』

 
  最近は美しい生活に憧れる。別に、家をきれいに飾ることではない。逆に、なるべくモノを飾らないこと、モノを置かない生活だ。今、家の中で最も邪魔になり、自分の生活にもあまり美しい存在に思えないものがTVだ。単純に、ブラウン管のあのばかでかい存在が邪魔というだけでもない。液晶の美しいディスプレーを持ってきても、その存在自体があまり美しいものにはとても思えない。
 今自分の生活にTVというものがどれだけ必要なのか考えてみると、それほど重要な存在にも思えない。好んで見るものは、ニュースと天気予報、そしてドキュメンタリーぐらいだろうか(それと若干のスポーツ)。まあ、それだけならインターネットやビデオでも十分替わりがきく。例えば、音楽だけが流れている空間と、画面にいろいろなものが目紛しく移り変わり映っているTVがある空間のどちらが美しいかといったら、圧倒的に音楽だけの空間の方がはるかにオシャレだし美しい。極端言ったら、音楽もいらない。何しろ、TVには美しくないものが多すぎる。その代表的なものが、「早食い」や「大食い」番組。
 あれだけ食べ物を粗末に扱い、人間の尊厳までをもだいなしにする番組もないのではないだろうか。もちろん、私が、好んでそういった番組を見ることはない。しかし、たまに偶然そうした番組を目にすることがある。大食いをする人、させる人、それを見て喜ぶ人たち。一体、文化とか、人間の尊厳とかを真剣に考えたことがあるのだろうかと思う。この光景の一体どこが面白いと思っているのだろうか?どれだけ早く食べられるのか?どれだけたくさん食べられるのか?人間の限界や能力に挑戦しているとでも言いたいのだろうか?もしそうだとしたら、それこそ大きな勘違いだと思う。彼らは、実際「何も」食べてはいないし、「食べる」ということの意味もまったく理解していない。ギネスブックに記録を乗せるなどというばかげたことを本気で考えているとしたら、彼らの人間性を本気で疑ってしまう。
 人間にはさまざまな欲望がある。食欲も性欲も名誉欲も物質欲も、それが単なる欲望でとどまっている限りはこれっぽっちも美しいものとは言えない。人間は、そうした人間の本質的に持っている欲望を、いろんな形で自分たちの文化にし、そしてアートにしてきたから人間であり続けられたのではなかったのか。「面白くなければTVではない」と言ってきたどこかのTV局があったが、それも「面白さ」の意味を曲解している。「面白さ」とは、「興味深い」ということに他ならない。知らないことを知ろうとする好奇心、探究心が「面白さ」の原点であるはずなのに、ただ奇抜なことが「面白さ」だと誤解している。今の世の中があまりにも美しさと懸け離れている原因は、きっとここら辺にあるのかもしれない。
 世の中の人がもっともっと「美しさ」を求める生活をしていれば、お金の欲望だけに奔走する政治や生活からもきっと解放されるだろうし、使う必要のない所にお金を使い、本当に必要な場所にお金をかけないような悪しき政治や生活からも少しは解放されるのではないだろうか?

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