APRIL 4のDIARY 『ニュー・サイエンスとニュー・エージ』

 
  今読んでいる本の中に「ニュー・サイエンス」ということばが出てくる。本来は、ニュー・エージ・サイエンスというところをニュー・サイエンスという言い方をしているらしい。音楽にもニュー・エージ・ミュージックというのがあるが、それと出所は同じのようだ。いわゆる団塊の世代、ヒッピーくずれ、LSD世代のベビー・ブーマーたちが起した精神主義の「怪し気な」ムーブメントをニュー・エージというが、このことばがサイエンスという論理的な実正主義とどう結びつくのかイマイチよく理解できないところがある。その本の著者も、そういう意味あいでこのことばを持ち出している。
 「ロッキード」のノン・フクションでデビューし、今や「知の巨人」と呼ばれる評論家を批判することが主旨のその本で、この「知の巨人」なる評論家の論拠はすべてこの「ニュー・サイエンス」に基づいているとされている。だから、その評論家の論旨もかなり「怪しい」とこの本は結論づけている。ニュー・サイエンスやニュー・エージがどうアヤシイかというと、すべての物事を二元論的に片付けて、そして、すべてを「ガイヤ理論」なる、これまたアヤシゲな論に強引に持っていこうとするところにある。そうこの本には書いてあるし、私もその点に関しては同感だ。
 「ガイヤ」というのは、「地球そのものが一つの生命体で、人間はその一部」というのが基本的な考え方。要するに、「環境や生物は全体が一つの生きた小宇宙である」みたいな考え方で、ニュー・エージの人たちが環境問題に取り組んでグリ−ンピ−ス運動や、盛んにエコロジカルな運動をやる上での思想的なバックボーンになっているものである。環境や生命が一つのサイクルの中にあって、すべてバランスを保たなければならないというのは最もなことだし、それ自体に異論はないのだけれども、私がいつもこのニュー・エージやエコロジー、グリーンピースの運動をアヤシゲに感じるのは、最初からある一つの「目的」があって、それが正しくて、それを疎外するものはすべて「悪」と決めつける「二元論」があるからだ。つまり、「イルカやクジラは環境を考える時の善玉」だし、それを殺す「日本の漁業は悪」というような「二元論」があまりにも横行し過ぎているからだ。これは、運動というよりは、一種の「エコロジー教」とでもいうような「宗教」に近いものがある。ニュー・エージ運動を積極的に行なっている人たちが常に「精神世界」を尊重し、実証的な科学を悪のように決めつけるのにはかなり閉口する。「チャネリング」と「エコロジー」。そして、「お香」と「イルカ」が同居するニュー・エージにどうしてサイエンスということば結びつくのかも不思議でならない。原因と結果を論理的に解明するのが「科学」であるはずなのに、世の中を「善」か「悪」だけで割り切ってしまうようなニュー・エージと科学がいかにして同居できるのだろうか?
 そうした流れから生まれた「ニュー・エージ・ミュージック」というのも、いかにも「宗教」じみていて私には理解しづらい音楽の一つだ。精神世界へトリップすることが目的の音楽というのは、いかにも居心地が悪い。オウムの集会にもそれらしき音楽が同居していたらしいが(麻原なにがしが作曲したとか言われているが)、音楽というのは本来は人間の心を「自由に解放する」ものではなかったのだろうか?だからこそ、音楽はどんな聞き方をしてもいいはずだし、どんな風に感じてもいいはずのものだ。それを、「善」か「悪」かの二元論で決めつけ、「環境に優しい」音楽しか許されないのであれば、ヒトラーがドイツ音楽だけを「善の音楽」と決めつけた論理とまったく変らないことになってしまう。
 私は、別に、その「知の巨人」の論調にコメントをつけ加えるつもりはないが、今私自身が書いている著作が「サイエンス」ということをテーマにしているだけに、「ニュー・サイエンス」ということば、ちょっと気になったことばではあった。

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