APRIL 27のDIARY 『老音楽家のことば』

 
 知識と情緒と意志という3つの働きを人間の脳は持っていると、今読んでいる本には書いてある。別に、脳の働きとかいったことがメイン・テーマの本ではなく、人間が「知」を使う時にでる化学物質(アミン酸などで、厳密に言うと、神経伝達物質)は何で、「情」が働く時に出る化学物質(ドーパミンなどのアミン分子)、そして「意志」決定を行う時に使われる物質(ペプチド分子)は何でどういう風に作用するのかといった、もっぱら化学的なことが説明されている本だ。そして、この本で結論づけられているのは、これら3つの要素(「知」「情」「意志」)が合わさったものが「心」だと規定されていることである。
 人間の「心」とは一体何だろうと誰しもが疑問に思う。それに対する化学的な答えを、この著書は、明快に与えてくれている。しかし、それだけで「心」のすべてがわかったことにはならない。例えば、音楽を聞いている時にどんな物質が体内や脳細胞で放出されているかはわかるが、だからといって、それで音楽=ドーパミンということにはならない。ただわかることは、音楽で感動する時に(つまり、気持ちいい時に)人間の体内では、ドーパミンが大量に放出されていることだ。
 もう20年も前に、私は、アメリカ・ヴァーモント州の山の中で(マールボロという軽井沢のような場所)ある老音楽家ののレッスンを受けたことがある。その人の名は、マルセル・モイーズという人で、生まれが1889年だから、その時もうすでに90才を越えていたはずの人物だ。フランスのパリからアメリカに移り住んでいたこの老フルーティストは、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』が初演された時のオーケストラでソロを吹いていたというぐらいの国宝級の人物でもある。もちろん、それだけでは、この人がどれだけビッグな人物かは音楽に関心のない人にはわかりにくいだろうが、要するに、私たちフルートという楽器をやる人間にとっては「神様」のような存在の人なのである。その人物に直接レッスンを受けるということだけでも大変光栄なことだったのだが、そのモイーズに最初のレッスンで言われたことばが未だに私の脳裏から離れない。
 緊張した最初のレッスンで私が演奏した曲は、タイスの『瞑想曲』。旋律を聞けば誰でも「ああ、この曲」と思うような有名な曲だ。それを、私が彼の目の前で演奏した直後に彼が言ったことばは、ただ一言、「Heart(ハート)」。そう言いながら、彼は、静かに私の肩をぎゅっと抱き締めてくれた。
 ああ、要するに、私の演奏にはハートが足りないから、もっと心を込めて演奏しなさい。そう言っているのだろうと、その時私は解釈した。しかし、それから20年たった今、その時の私の解釈はまったく浅はかなものでしかなかったことを思い知らされる。20年目にしてやっとあの「神様」のことばが理解できるようになろうとは....。
 『神様』モイーズの前で自信を持って演奏した私に「ハート」と答えてくれた彼のことばの本当の意味は、ただ単に、「演奏は技術じゃない、心が大事なんだ」程度の意味なんかではなかった。彼の存在なくして二十世紀にこれほどまでにフルートの音楽が人々に愛されることはなかったはずである。そんな彼の耳に届いた私の演奏には、音楽にとって最も大事な何かが欠けていたのだろう。
 「どうだ、イイ音で演奏できただろう。ウマイ演奏だっただろう。どこにもケチのつけようのない演奏だっただろう」。当時大学院で学んでいた私の心の中に、そんな思い上がりがあったのかもしれない。音楽が人に伝えなければならないのは、そんな演奏する人間の「慢心」でも「虚栄」でもないし、ましてや「感動」させてやろうとする「思い上がり」でもない。その音楽をその曲がどれだけ素晴らしいものか、そして、演奏する人間がその音楽をどれだけ「愛している」のか、そのことを楽器の演奏を通じて伝えるのがプレーヤーの役目。そのことに、今初めて気づかされる。
 「心をこめて」なんていう偽善的なことばではけっして説明できないもっと深い音楽の真実に気づきなさいよ。きっと彼はそう言いたかったのではないだろうか。
 音楽の意味を分かり過ぎるほどわかっていたその老音楽家のことばを本当に理解するには、その時の私はまだ若すぎたのかもしれない。そして、あまりにも自信過剰過ぎたのかもしれない。

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