APRIL 26のDIARY 『人間のドラマ』

 
  映画を観る本数が以前より減った気がする。相変わらず劇場にも行くし、ビデオを見るのだけれども、何か以前ほどのパトスがない。「映画こそ最大の娯楽」という自分なりの考えの基本は変っていない。しかし、それほどの感動を与えてくれる映画に最近出会うことは本当に少ない(それとも、自分の中の何かが変ってしまったのだろうか?)。
 あれほど原作を夢中で読んだ『ロード・オブ・ザ・リング』も、やはり映像にしてしまうとあれだけのものでしかなくなるのか(そんな感想しか持てなかった)。『ピアニスト』も、フランス映画独特の後味の悪さだけが残った映画だった。つい最近観た『シッピング・ニュース』は、主役のケビン・スペーシーとジュリアン・ムーアに期待していったが、やはりストーリー自体に納得できずにもうすでに内容を忘れかかっている。ジュディ・デンチやケイト・ブランシェットといったせっかく私の大好きな俳優たちばっかりが出ている映画なのに結局、「何にも残らなかった」映画としての記憶しかない。最近観た映画で唯一心に残ったのは『アメリ』ぐらいだろうか(でも、これにしても、「感動した」という意味あいのものではなく、「楽しめた」という程度のものだったけれど)。『ユージュアル・サスペクツ』や『真夜中のサバンナ』、『アメリカン・ビューティ』で見せてくれたケビン・スペーシーの魅力は、一体どこにいってしまったのだろう?
 世の中が不景気な時ほど、音楽や映画といった比較的安い料金で楽しめる娯楽は盛んになるというのがこれまでの定説だったはずなのに、それもあまりあてにならない。三池崇史や黒沢清が元気だといっても、日本で最高の興行収益をあげた映画が『千と千尋の神隠し』では何とも情けない限り(別に、アニメを悪く言うつもりもないけれど)。かと言って、過去の映画だけが素晴らしくって、今の映画はダメだなどという結論を言うほどの眼力も私にはない。単なる一映画ファンの私に、もっと「映画を観たい」というパトスを沸き立たせて欲しいと心底思う。サスペンス/ミステリー映画が大好きで、ビデオ屋のサスペンスの棚はとりあえず総なめした私は、『ユージュアル・サスペクツ』のあの痛快なラスト・シーンほどの衝撃を与えてくれる映画が早くできないものかと期待するのだが、なかなかそんな映画にはここ数年お目にかかれない。これは、やはり台本のせいなのかと思ってしまう。
 別に、そこにドラマチックな「ドラマ」がなくても、映画にはやはりドラマが必要だと思う。しかも、それは「人間のドラマ」でなければならない。サスペンスだろうと恋愛映画だろうとSFだろうと、やはりそのコンテンツには「人間」が必要だ。映画を観る人も人間、作る人も人間。CGをたくさん使おうが、アニメであろうが、そこに描かれるべきものは人間でなければならない。しかし、実際は、映画の中に描かれる「人間」よりも生身の人間のドラマの方がはるかに面白い。喫茶店で二、三十分お茶を飲んでいるだけでも、周りにいる人間にはさまざまなドラマが繰り広げられている。つい今日も、たまたま入った喫茶店の近くの席で「お前、俺が信じられないのか!」「俺の隣にいた女性は何でもないんだ」と中年の男性が若い女性に声を荒げて必死の弁明をしていたのを小耳にはさむ(この話しを聞いている方が、映画を観るよりもはるかに面白そうだ...)。
 要するに、人間が頭で考える想像力なんてのはたかが知れたもの。しかし、だからこそ、大昔からギリシャ神話、ギリシャ悲劇、シェクスピアなどのストーリーには「人間の真実」の姿が描かれてきたのだと思う。人間の泣き笑いなんていうのは、別に今に始まったことではなく、人間が人間である以上どこまでいっても同じ本質を持っているはず。だとしたら、映画や音楽が人間に与えられるものも、二千年前も三千年前もまったく同じなのだろうと思う。大昔に楽師が竪琴一本で表現したことも、ローマやギリシャの劇場で素の俳優たちが表現したことも、CGやサンプリングなどで表現することもまったく同じでなければならないはず。しかし、どこかが違う。
 きっと、今は「道具」が多すぎるのではないかと思う。音楽を作る「道具」、映画を作る「道具」が多くなり過ぎてしまったのかもしれない。あまりにもハイテクな道具に頼り過ぎるスポーツは何の感動ももたらさない。同じように、「人間」と「人間のドラマ」の本質を忘れた映画も音楽も、何の感動も与えない。本当は、人間が感動するのなんてそれほど難しいことではないのになとも思う。そこに、ほんのちょっとでも「人間の真実」がありさえすればいいのに....。

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