APRIL 1のDIARY 『一枚のCDの持つ重さ』

 
  ホームページをリニューアルするにあたって、朝日れすかという媒体のページを少し充実させた。それには私なりの理由がある。
 これまで何年もメディアで原稿を書いてきた感じと、この「れすか」は雰囲気が少し違う。メディアがある特定の地域にだけ限定されているということだけではない。いつもならば、活字になってしまった時点で終わり、あるいは、原稿を入稿してしまった時点で仕事は終わり、というのとはちょっと違う感触を私はこの媒体に持っている。CDを毎回読者にプレゼントするために、読者からの応募のハガキが編集部に必ず寄せられる。そして、そこには、読者からの素直な感想やら意見なりが記載されている。ハガキの中で書けることはそう多くはないが、私はこの読者からのハガキを読むたびに考えさせられることが多い。
 雑誌にしても新聞にしても本にしても、マスで売られるものの中の原稿はどこか一方的だ。すべてのライターにそういう意識があるかどうかはわからないが、一種、上からものを言っているようなところがある。世の中にはたくさんの活字メディアがあるけれども、そういった場所で意見を言ったりものを書いたりできる人はある程度限られている。職業作家やライター、評論家といった類いの、ものを書くことで生計をたてている人たちはそれほど多くはない。そして、それはある種の特権でもある(不特定多数の人たちに自分の意見を言えるという意味で)。TVの中で評論家が意見を言えば、それはそれなりの波及効果を持つし、社会に対しても影響を与える。活字メディアでもそうだ。そういった場所で自分の考えを言う人たちのうち一体どれだけの人が自分の発言に対して責任を持っているのだろうか?いったん活字になってしまえば、そこに目に見えた形で反論や批判がよせられることはない。最近は、新聞でも署名入りの記事が増えてきて、責任の所在を明らかにするようになってきたが、それでもまだまだ「書きっぱなし」「言いっぱなし」の傾向はマス・メディアの中に横行している。インターネットが普及してから、世の中の一人一人がホームページを持ち、その中で自分たちの意見を言えるような形になって、そうしたマス・メディアの意見をインターネット上で批判しているような場面に遭遇したりするが、それでも、そうした意見がTVや雑誌などに現れることは稀だ。
 この朝日れすかの私のコラムに対する「普通」の人たちの意見は私にはとても刺激的で、目から鱗のような体験をすることが多い。先日、ある主婦の人が、「私が年に買うCDはほんの数枚です」と書いてきてくれた。そして、だから私の書く記事で紹介するCDが「とても参考になる」とつけ加えてくれていた。私が、年間に手にするCDの数は、おそらく数百枚。自分で購入するものも、レコード・メーカーから送られてくるものも含めて相当な数になる。おそらく、この主婦の人と比べて、一枚のCDの持つ重みがかなり違う。それこそ、包装も解かずに棚にそのまま眠ってしまっているCDもけっこうある。ある意味、CD一枚に対する感動がこの主婦の人とは全然違うレベルになってしまっているのかもしれない。音楽を仕事にしているのだからそんなことは当然という言い訳も成り立つのだが、それはやはり違うのではないかと思う。やはり、一枚のCDの重み、一曲の重みは、どんな時も感じてなければいけないはずだ。世の中にあるすべてのCDやすべての音楽が価値があるとは言わない(正直言って、そうは思わないから)。しかし、そんな有象無象の中から本当に価値のある一枚を紹介できるこの媒体への原稿を、私はおろそかにできないと思っている。音楽は、こうした普通のファンのためのものなのだから。

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