MARCH 19のDIARY 『自分を納得させること』

 
 きっと今週の週末は花見の人がすごいのだろうなと思うような咲きっぷりに、春の風の強さが若干気になった。ほとんど雪を見ることなく過ぎてしまった今年の冬。そして、このかなり早い桜の様子に、地球の温暖化もここまで進んでいるのかと思うのはいささか早とちりなのだろうか?
 最近よく考えることがある。それは、人間の納得の仕方ということ。人間は一人一人違うのだから、意見の相違や生き方の違いは当然のこと。だから、少しぐらいの不公平があるのも納得がいく。富めるものは益々富み、貧しいものはまずます貧しくなっていく。これも当然のことだろう。今の経済原則では、もともと富みを持っている人しか富みを増やしていくことはできない仕組みになっているのだから。社会に少々の矛盾があったって、人間の存在そのものが矛盾に満ちているんだから、それも当然のことと納得がいく。そうやって考えていくと、人間はどれだけの納得を勝ち取れるかで楽に生きられるかどうかが決まっていくような気がする。
 納得がいかないこと、我慢がならないことが多ければ多いほど、人間には不平不満がたまりストレスで不幸になっていく。きっとそうなのかもしれない。人によって、幸福の基準も不幸の基準も違うけれど、それが妥協であれ何であれ、納得のいくことが多い方がストレスは少ない。私は、おそらく人よりもストレスは少ない人生を歩んでいるような気がする。それどころか、ストレスって何?と言ってしまうほど、ストレスを感じない人間でもある。人間はいつも進歩を目指している。でも、その進歩が何なのか、時々見失う。現代社会の問題は、その進歩=便利さ=幸福と勘違いしたところにあるのないだろうかと最近よく思う。便利なことが必ずしも幸福には結びつかないことを、二十世紀の後半になって人間はやっと気づき始めたのかもしれない。過疎の村に立派な道路を作ったって、必ずしもそれが人々の幸福には繋がらない。パソコンがなくっても、TVがなくっても、人間は本当は何も困りはしない。本当に困るのは、そういうものがない生活を自分自身が納得できないこと。情報を追っていないと、便利な製品に囲まれた暮らしをしていないと自分が幸福になれないという強迫観念を持って生活をすることの方がよっぽど人を不幸にしてしまうのではないかと思う。
 先日、生まれつき耳の聞こえない二十歳の女性のことを扱ったTVの番組を見た。その彼女が書いた本の中で彼女が言っていることが強く印象に残っている。「私は、耳が聞こえないことを不便だと思ったことはあるけれども、それで自分を不幸だと思ったことは一度もありません」。
 この女性は、相手の唇を完璧に読むことで、まったく普通の人と同じように会話をし生活をしている。もちろん、この会話の手段を完璧にこなすまでにはかなりの努力をしたはずだが、それでも、自分の置かれた状況を不幸だと思ったことは一度もないと言い切っている。確かにそうだと思う。人間にとって、不便さも便利さも尺度が違うが、一般的な不便さはそれだけで不幸に結びつくものでは絶対にないと思う。要は、やはり自分自身の中の納得の仕方。お金が一億あってもその状況に納得できなければ、それだけでその人は幸福ではないはずだ。でも、たとえ十万でも納得できれば、その生活にストレスもたまらないし、十分に幸福を感じることができるはずだ。人間は、幸福になることも不幸になることもわりと簡単にできる動物なのかもしれない。今ある自分に納得できれば人は幸福だし、納得できなければ不幸だと思う。ただそれだけのことなのかもしれない。  

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