FEBRUARY 5のDIARY 『知識欲』

 
 来週に迫った料理ライブのために、日夜料理のリハを一人でやっている(といっても、作った料理を一人では食べ切れないので、手近な人に食べさせたりはしているが)。そのうちの一つの料理のために、どうしてもある種類のチーズが必要なので、今日、久しぶりに青山の紀ノ国屋というスーパーに買い物に行った。以前は、このスーパーによく来ていたような気がするが、最近ここに来ることもあまりなくなってしまった。西麻布のNATIONALや紀ノ国屋は、外人御用達のような敷き居の高さと値段の高さで、一般の人がサンダル履きで買い物に来るような所ではないというイメージがあるが、今日改めてその思いを強くした。確かにモノはいいのかもしれないが、あの値段の高さは異常だ。世の中のモノはすべてデフレに傾いているというのに、アジ一匹の値段が400円!近所のスーパーで買えば、アジなんか100円から150円で買える。魚屋に行けばもっと安いだろうに(熱海じゃ、ひと山150円だ!)。それに、1偕から2偕へ移動するだけのエレベーターに女性のガイドがいるということだけ見ても時代錯誤なのか、それをサービスと考えているのかよくわからないが、この店は異常だ!と改めて思ってしまう。
 状況はまったく逆だが、アメリカで日本食の素材を買おうと思うとえらく高くついたことを思い出してしまった。確かに、アメリカで日本のモノは輸入品なのだから、日本で外国の食材を買いそろえるようなものだ。私は、アメリカにいる時も日本と同じような食生活をしていたので、普通のアメリカのスーパーで買うよりも食材にかけるお金は3倍以上になっていた。この紀ノ国屋も、それと同じ感覚なのだろうか?
 ちょっと憤慨しながら、紀ノ国屋を出て本屋に向った。お目当ての本は結局絶版になっていて手にいれることはできなかったが、本に囲まれていると妙に安らいだ気分になれた(ちょっとした幸福感!)。本の値段が高いか安いかなどということはまったく考えもしない。あの本も面白そうだな、この本も読んでみたいな...。そんな気分で、妙にテンションが上がってくる自分がいる。人間の知識の差というのは、別に人間の優劣を決めるものではないが、人間には根本的に知に対する欲求があるのではないかと思えて仕方がない。
 人間は赤ん坊として生まれてきてから成長の過程でいろんな知識を得る。それは、本来生きていくために必要な知恵でもあり、人間が本来持っている知識への欲求がそうさせるのではないかと思ってしまう。人間にはいろんな欲があるけれども、性欲、食欲、名誉欲、金銭欲と同じぐらい知識欲というのも人間には必要なものなのではないのだろうか。そして、不思議なことに、この知識欲、無性にわいてくる時とまったくわかない時がある。
 私がアメリカに留学した最初の半年間、英語の授業についていくのが必死だった。先生の講議のスピードについていけず、ロクにノートもとれなかった。しかし、半年ぐらいたったある日、急に英語が理解できるようになった。英語を英語で考えられるようになったのだ。それまでは、耳から入ってきた英語をいったん日本語に翻訳していたから相手の話すスピードについていけなかったのだが、そのある瞬間から英語が英語として頭の中で理解できるように変った。そうなればシメタものなのだが、今度は逆の意味で困ったことが帰国後おこった。5年のアメリカ生活を終えて日本に帰ってきた直後、今度は日本語の活字をまったく受け付けない自分がいたのだ。日本語の新聞も雑誌も本もまったく読む気がしなかった。心理的に拒否していたのだろう。それが、やはり帰国後半年ぐらいして突然の変化が訪れた。ある日を境に、今度は「知恵熱」でもついたかのように、日本語の活字が無性に読みたくて読みたくて仕方がなくなったのだ。この変化は自分をえらく驚かせた。それは、本屋にあるすべての本を読んでみたくなるほどの知識欲だった。
 日本語から英語への変化。そして、今度は英語から日本語への変化。身体と精神のバランスがちょうど取れた時、その瞬間に人間は知識への欲求が生まれるのかもしれない。現に、今でも、自分の精神状態が悪い時に知識欲などあまり起こらない。何も読む気がしなくなる。つまり、生きることへの欲が消えかかっている時に本なんか読んでも一体何になる?そんなアンバランスな状態が人間から知識への欲を失わせてしまうのかもしれない。私の中でも、ここ半年ぐらい知への欲求は消えかかっていた。あまり精神的にいい状態ではなかったからだ。しかし、今、またその欲求は急速に高まっている。きっと、生きることへの欲が高まってきた証拠なのだろう。

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