FEBRUARY 21のDIARY 『指環か愛か?』

 
 トールキンの『指環物語』の映画が今年のアカデミー賞の候補にもなっているらしい。原作が発表されたのがいつだったかはっきりとは覚えていないが、少なくとも二十年ぐらいは既にたっているような気がする。原作を読んだ後、アニメ版の映画が出来、それを観た時、これはかなりアニメにはうってつけの題材だなと思った。あの頃、TVゲームがこれほどファンタジックな世界になるとは予想していなかったので、この『指環物語』を日本人が一般的に好むとは思ってもいなかった。ケルト神話の世界のようなファンタジックな長篇ロマンのこのストーリーは、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』と同じような題材でもあり、英語圏の神話としてはかなりクラッシックなテーマだが、あんまり日本人にしっくりくるテーマではないと思ったからだ。
 ワーグナーの『ニーベルングの指環』では、「指環」を選ぶか「愛」を選ぶかという究極の選択を迫られ、指環が世界を支配する力、つまりそれは愛と対極にある権力の象徴のように扱われていた。言い換えれば、「指環」は「悪」の象徴でもあった。そのテーマは、そっくりそのまま『指環物語』にも当てはまっている。『指環物語』では、3つの指環が揃わないといけないことになっているが、これは単純に3つという物理的に地上で力を発揮できる最大の定点が3つ(三脚はそのいい例)という意味でもあり、3つ揃わなければ世界を支配する力は持たないという宇宙の原理みたいなものだろう。問題はそんなことではない。「指環」か「愛」かという二元論的なテ−マの方がより重要だ。「指環」は世界を支配するもの。「愛」は世界を救うもの。こういったテーマにしがみついている西洋社会の方が私にはかなり問題のような気がしてしょうがない。ブッシュ大統領が言っている「悪」というのも、この辺にも根拠があるような気がする。アメリカの「愛」で世界を救う。「指環(この場合、核兵器なのか、あるいは自爆テロなのかよくわからないが)」は、「悪」の権化であり、これは断固排除していかなければならない。こういう論理を支持するアメリカやイギリスの英語文化圏で『指環物語』が大ヒットするのは至極当然なのかもしれない。
 『指環物語』の実写版映画はまだ観ていないが、最近フランス映画の『ピアニスト』というのを観た。完全に失敗作だが、ここで語ろうとしている「愛」の形態が、英語文化圏で作られる映画の中の「愛」とは異質なのを発見して確かにそうだなと思った。
 母親と二人暮らしで、その母の面倒を見るために結婚しそびれたハイミスの中年ピアニストが、若い美貌の男子学生に言い寄られて、ふだんから持っていた鬱屈した性的願望をその男の子で満たそうとする。しかし、彼女はその男性からそうした願望を軽蔑されののしられてしまう。そして、その学生と、満たされない自分の人生に復讐する....。というストーリーのはずなのだが、結末はかなり尻切れとんぼで何も描き切れていない。ただ、ここで描こうとしている愛には、『指環物語』のような『愛』か『支配』かといった二元論はまったくない。それだけはよくわかる。フランス映画で描かれる「愛」がいつもわかりにくいのは、「愛」の形態がいつも対個人だからなのだろうと思う。『O嬢の物語』のように、昔からフランス文学の中にあるエロチックなファンタジーは、いつも人間を「愛」によって支配できるか支配されるかみたいなことを追求しているような気がする。けっして「愛」か「悪の支配」かみたいな問題の立て方ではない。「愛」の中にこそ、「支配」「被支配」のような関係があるというのがフランス流の「愛」の描き方だ。映画『キリング・ミー・ソフトリー』もまだ見てはいないが、おそらくこういった問題の立て方はしていないのではないかという気がする。『ピアニスト』の女主人公はM願望を剥き出しにするが、それがS願望だろうが、M願望だろうが、「愛」にはそうした「支配」「被支配」のような関係が絶対に存在するんだということを必死になって訴えようとしているのがフランス映画や文学の特徴なのではないだろうか...。そう言えば、フランスの中年男性のほとんどはロリ願望を持っているように見えるが、それもこうしたことの現れなのかナ?

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