NOVEMBER5のDIARY 『あげるモノ

 

  昨日、久しぶりに上野に行く。目的は、東京芸大の中にある奏楽堂でのあるコンサート。
 上野の駅を降り立つのも久しぶり。休日のせいか、美術館や動物園の脇を抜けて芸大の方まで行く間に家族連れがかなり目につく。桜の季節に来るとやたらと桜の木ばかりが目に入るが、この時期の上野は、さすがに上野の森というだけあって木々の匂いと土の香りにくらくらとするような刺激を受ける。ふと足下を見ると人々の足でつぶされた銀杏の実の残害。そうか、この辺りの香りを支配していたのは、この銀杏の実の匂いか?しかし、次ぎの瞬間、違う思いが頭をよぎる。ここ最近、東京の街路樹にある銀杏の木は、実のつかない雄の木ばかりなのに、ここには雌の銀杏もまだたくさん残っているんだな?
 そう。最近の匂いに対する病的なほどの潔癖性が災いしているのか、東京の街路樹からあの銀杏の香が消えて久しい。ここしばらく忘れていた香りをかげた嬉しさで足取りもふと軽くなる。
 奏楽堂に一歩足を踏み入れると、今度は、まったく違う匂いが私を出迎える。私がこの匂いを嗅ぐと思い出す光景はただ一つ。留学時代にいつも通っていたジムの建物のコンクリートの白い壁。練習と予習に明け暮れていた学生時代、すべての一日の日課を終えて夜の11時近く毎日フィットネス・トレーニングのために通っていたジムの無機的な建物が、奏楽堂の建物に入った瞬間、私の脳裏に蘇ってきた。匂いの記憶というのは、いつでも過去のある瞬間を即座に蘇らせてくれるが、私がこの匂いを嗅ぐと思い出す景色はどんな時もこの光景だけ。いや、具体的な光景は何ひとつ蘇ってこないが、時間と空間を越えてその場所に自分がワープしていくことだけは確か。でも、最近、この私のメモリーも少し修正されている。というのも、私がコンクリートの匂いと思い込んでいたのは、実は、ある種の空調の匂いなのではないかと最近気がついたからである。正確に言うと、ある種の空調の匂いとコンクリートの壁に囲まれたある空間が作り出す独特の匂いなのかもしれない。それがたまたま「今」と「過去」のある瞬間で一致しただけ。単にそれだけのことなのかもしれない。でも、私は確実にその瞬間どこかにワープしている。
 コンサートはとても面白かった。最近、なかなか面白いと思えるようなクラッシック系のコンサートを経験していないだけに実に貴重な体験だったかもしれない。私の友人(彼女も作曲家)を含めた40人あまりの作曲家が「平和」というテーマでピアノの小品を自作自演するというもの。作品の演奏は長くて4分か短くて2分前後のものだからアッと言う間に終わってしまう。でも、こんな短い曲で、しかもピアノだけという作品にもかかわらず作曲家の個性というものははっきりと出るものだなと思った。やはり、人間の創作というものは、その人の中にないものはどうあがいても表現できないということなのだろう。音楽でも美術でも、小説でも、それを作る人の人間性がモロに出てくるから面白いのであって、それがないのだったら逆に「その人」が作る意味などまったくない。
 その中でもっとも感動したのが、ある有名な作曲家(このコンサートには著名な作曲家が何人も出演していた)が作った連弾の作品。長身のその男性作曲家が連弾のパートナーとして選んだのは、彼の半分ぐらいの身長の(そんなわけはないが)小柄な彼の母親。しかも、そのお母さんは七十五才(だったかな?何しろ、音響がお風呂屋さんのようなので、声があまり聞き取れなかった)で音楽の訓練はまったく受けていない方。彼女が左手のパートに座り、ひたすらドの音だけを一本指で弾き続けていく。作曲家の彼は、そのドの音にあわせて簡単なフレーズを弾いていく。もう、これはそのメロディがいいとか悪いとか、美しいとか美しくないとかいった次元を越えている。音楽のわからない人、ドレミのわからない人でもこんなに楽しく連弾できますヨといった次元でもない。この作曲家氏の母親に対する愛情と、音楽っていうのはこういうものだよというメッセージが聴いている我々に伝わってきて本当に感動できた作品だった。
 音楽は、必ずしも「楽しむ」ことだけが目的でもないし、逆に、「悲しむ」ためのものでもないと思う。銀杏の匂いに思う情感やコンクリートの壁で蘇る切なさなど、人が生きている間に感じるさまざまな「感情」を表現するためのものであり、そうした思いや感情をどれだけ持っているかが本当に大事なのだろうと思う。何も持たない人は、何もあげることができない。「あげる」ものをたくさん持っている人、それが本当に「才能」を持っている人なのではないかと思う。
 母親の手をひいて一緒にピアノの前に座った作曲家の心の中からほとばしり出てきたものを、私も確実にいただいたような気がした。

ダイアリー.・トップへ戻る