NOVEMBER28のDIARY 『本当に必要な能力

 

  人間の感覚はすべて人間が生き残っていくために必要な能力。匂いは、花の匂いを嗅ぐためにあるというよりも、腐ったものを嗅ぎ当てるために必要な能力。舌も、食べられるものと食べられないものを識別するために必要なもの。耳だって、別に音楽を聞くのが目的なのではなく、敵がどちらから来るかを判断するために最も有効な能力なはずだった。でも、こういう感覚というのは、ダーウィンの用不要説ではないけれど、必要なものは残り必要でないものはどんどん削ぎ落とされていく。
 今でも、耳は「敵」を察知するには非常に便利な感覚だ。例えば、車に乗っているとちょっとした「音の変化」で車の異常に気づくことが多い。エンジン音の変化、車体の異常な音やきしみ、何か異様なものをハネた時にはそれなりの「音」がする。やはり、音は人間にとっての「敵」を察知する能力を十分に持っている。
 生物は身体の異常を匂いで感じる。ネコは、健康な時は基本的に無臭。しかし、どこか体に少しでも異常があると途端に匂いを発生する。人間もそれと同じ原理だが、人間の場合自分の匂いを自分で感じることは稀だ。自分自身の匂いに自分の鼻がどんどん慣れてしまって「その匂い」を感知できなくなってしまうからだ。でも、私自身の嗅覚が異常なのか、時々自分の匂いの変化に気づく時がある。例えば、「焼き肉」を食べたりした時。ふだん、ほとんど肉食をしない私が焼肉を食べると身体が驚くのかどうかはわからないが、必ず食べた後に「何か」いつもと違う匂いを身体に感じる。別に、それは焼肉のタレの匂いが洋服についていてその匂いをずっとひきづっているということではない。「それ」は、確実に身体から匂ってくるからだ。
 自分は特別に匂いに鋭敏な感覚の持ち主ではないと思う。一時、「香道」という習い事に参加して自分の嗅覚がどれほどのものか試したことがあるが、結果は、並み以下でも並み以上でもないということがわかっただけ。ただ、匂いを感じやすいことだけは確かだと思う。人一倍匂いを気にする。別に臭い匂いがイヤだとかいう類いのものではなく、そこにすぐ関心がいくと言った方が正しいかもしれない。道ですれ違う時一番気になるのは、彼や彼女がすれ違いざまに残していく「残り香」。シャンプーの香りだったり、コロンだったり、防虫剤の匂いだったり、それこそタバコの匂いだったりする。いつもいい匂いとは限らない。でも、それが一番気になる。そこから、その「人」が見えてくるからだ。
 でも、私の匂いの感覚能力は、多分ごく普通。どんな匂いでも嗅ぎ分けられる優れた嗅覚、というわけでもない。ただ、感じることだけは人並み以上。だから始末に悪いのかもしれない。でも、人間が遠くの「敵」を匂いだけで嗅ぎ分けることのできた時代には、今よりももっと優れた能力を持った人たちが大勢いたはずだ。今、ドとかレを言い当てる能力が絶対音感として一つの「才能」のように言われているが、あんなものが「才能」であるはずがないと私は思う。人間が本来聞き分けることのできる1オクターブの階段は、十二程度の数字ではなく、百段階ぐらいの音階があってもそれを識別できるだけの能力を人間は持っていると言われている。現実に、アラブ諸国の音楽の微分音程はそれに近い。でも、それを彼らが聞いたり歌ったりする能力は別に「才能」なのではなく、慣れから習得した単なる「技術」の一つにしか過ぎない。絶対音感が本当に人間の「才能」であるなあらば、生まれ落ちた時からその能力が先天的にあってもよさそうなものだが、これは九十パーセント以上、幼児期の訓練の賜物。要するに、単なる「技術」の一つなのだと思う。それを持ってない人から見ると、それを「持っている人」が羨ましくも見えるが、この能力、おそらく、この二、三世紀の間だけ珍重されるようになった技術なのだと思う。その時代時代の音楽に必要な技術は、それを必要とする人にその時その時で与えられていたはず。二千年前のギリシャの音楽に今の絶対音感などはまったく無用の長物だったはずだ。その意味では、ダーウィン先生の言ってることは正しい、のだ。
 となると、今の私に本当に必要な感覚とか能力は一体何なのだろうとつい思ってしまう。

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