NOVEMBER22のDIARY 『ハッピーエンドは必要?

 

 忙しさにかまけているとどんどんいろんなモノが後ろに置いていかれる。目の前にある「やらなければいけない」モノに追われてしまうからだ。このダイアリーも、気がついてみると最後の日付けから2週間以上の時間がたっていた。  
 「これではいけない」と思いつつも、やはり身体と心は「目の前にあるもの」の方に向ってしまう。それでも、まったく二十四時間忙しさだけに追われているわけでもない。バランス感覚を私から取ったら何が残るのだろうというぐらい人一倍バランスには気を使う人間の私は、どんなに忙しい時でも「心の余裕」だけは持とうとする。それは、時に料理だったり、映画だったり、人との会話だったりするのだが、要するに、自分の中にストレスという感覚を育てないための努力なのかもしれないと思う。いや、努力ということばはこの場合適切ではないかもしれない。ある意味、自然にそうなってしまうのだから...。
 仕事が忙しくなればなるほど料理をしたくなる。料理をしていることで心がとても「冷静」になれるからだ。あの素材とこの素材でこんな料理が作れるかもしれないナ?今日は、アップルパイでも焼いてみるか?
こんなことを考えているだけでウキウキしてくる自分が、時々「変なのかナ?」と思ってみたりもするのだが、まあ、好きなことをやっている時人間はストレスも感じないし、むしろ「快楽」を感じるのだから、精神衛生上はとても健全なのだろうと思っている。
 ここ2、3週間の間に映画も数本観た。劇場に足を運んだ映画の中で面白かったのは『ディナー・ラッシュ』と『至福のとき』。アメリカ映画と中国映画。両方ともTVで宣伝しているらしいのだが、TVはほとんど見ないのでそれについてはまったく知らなかった。
 『ディナー・ラッシュ』は、ニューヨークのイタリアン・レストランでの人物模様がかなり面白いタッチで描かれている。ニューヨークでイタリアンとくれば、まあマフィアが登場してくるのは定番と言えば定番だが、最後のオチは意外と痛快で面白かった(観てない人のためにオチは言わない)。『至福のとき』は、けっこう泣かせる映画。「いい人たちが仕方なくつく善意のウソ」というところがおそらくアジア人の涙腺を刺激するのかもしれない。その「いい人たち」が一生懸命つくウソがとてもいじらしくて、それに観客はついホロリとさせられてしまう映画だ。でも、ラストがどうもしっくりこない。
 まま母にいじめられて育った盲目の少女(よくあるパターンだが)を失業者の人たちが一生懸命助けてあげようとするのだが、同じく失業中の主人公の中年男性が突然の交通事故で亡くなってしまう。残された周りの人がそれでも彼女を助けようとするが、彼女は、そうした周りの善意に甘えずに一人で懸命に生きていこうと彼らの元を去っていく。ラストとしてはけっこう泣かせるし感動的なのだが、よく考えるとこのラストには何も「救い」がない。主人公の男性は死んでしまう。周りの善意の人たちは未だに失業中。盲目の少女は、目の手術をするお金もない、生活するお金もない、そして、身寄りもまったくない。一体、これで少女はこれから先どうやって生きていけばいいというのだろうか?
 何か希望を少しでも残して欲しかったナというのが映画を観終わっての正直な感想。これでは、アメリカ人がこの映画を観たらきっと怒り出すだろう。ハッピーエンドしか求めないアメリカ映画にこんな終わり方はない。ちょっと悲しい結末の別れで終わりそうな男女でも、最後の最後には結局抱き合って終わる。それでなければアメリカの観客は納得しない。おそらく、アメリカという国が、最初から「希望」を持ってやってきた人たちばかりだからだろうと思う。開拓民として移民してきた当時から今現在も、あの国に定住する人たちは「希望」を求めてやってくる。「お金」「地位」「名誉」。いろんな希望を持ってやってくる人たちばかりだ。そんな人たちに、ひとかけらの希望も残さない映画などあってはならないものなのかもしれない。しかし、中国映画や日本映画では、時々何の希望も残さずに映画を終わらせることがある。それは、きっと、人間にはこうした「不条理」な世界も現実としてあるのだということを、中国や日本の人間が長い歴史の中で十分に認識してきたためなのかもしれない。世の中は、それほど「黒と白」だけで割り切れるものではないし、「善と悪」だけですっきりカタがつくものでもないということをイヤというほどわかっているからなのかもしれない。
 映画『至福のとき』に唯一の救いがあるとすれば、それはこの少女の「可愛らしさ」と「けなげさ」なのだが、だからこそ、この少女にこれから訪れるかもしれない現実世界の「魔の手」の存在を余計に感じてしまうのだが..。

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