NOVEMBER2のDIARY 『絶対ということ

 

「絶対」ということばの意味を時々考えることがある。別に、宗教的なことを考えようというのではなく、近頃、絶対音感というものにこれまでよりも関心を深めたからかもしれない。
 当たり前だけれども、絶対というのは、相対的ということばの対極にあることば。唯一無二という意味にもなる。誰が何と言おうとそれしかないという意味での絶対的な物と言う意味。普通、私たちは、絶対というとすぐに神という存在を思いうかべる。神は唯一無二で、同じものが二つあっては困るものなのだけれども、神話の時代にはやたらといろんな神様がいた。だから、たった一人の神様ということで絶対神ということばを作りだしたわけだ(日本みたいに、神様がそこいら中に氾濫している状態というのも、ある意味、のどかではあるけれども)。もし、世の中に絶対的な真理があるとすれば、それは、人間が考えの及ばない世界、つまり、形而上学的な存在にしかあり得ないのかもしれない。
 そこで、音楽の世界で言う絶対音感なるものの意味を考えてしまう。音は、単なる空気の振動にしか過ぎないものを、なぜ絶対的なものとしてとらえようとするのだろうか?私が、絶対音感というものに懐疑的なのは、この「絶対」ということば自体に素朴な疑問を抱くからだ。もともと、ドもレも存在しなかった時代に音楽は生まれていた。なのに、なぜ音楽をドとかラといった尺度で考えなければいけないのか?
 音楽は、そもそもすべてが即興的にできたものではないかと私は思っている。楽譜や音楽理論は、単に後から西洋人が勝手につけたルール。現在、西洋音楽でいうA=ラの音は440サイクルという周波数が基準に考えられているが、これ自体が一体どういう意味を持っているのかと私はいつも疑問に思う。一体誰が何の根拠でA=440サイクルと決めたのだろう(このA=440にしたって、現在442の所もあり、445の所もあるわけだし、バロック時代は420ぐらいだったという話しもあるぐらいなのだから)?
 しかし、そういった素朴な疑問は、現在の平均律を文法とする音楽の世界ではほとんど切り捨てられていく。浜崎あゆみの音楽もベートーベンの音楽も、基本的には、このA=440サイクルという文法の中での音楽にしか過ぎない。「絶対音感」というのは、その文法(つまりはキリスト教的な文化での音楽の文法)の中で必然的に生まれてきた能力(これを天才的な能力と勘違いする人がいるが、けっしてそんなことはない)。だから、西洋音楽であるベートーベンや浜崎あゆみの音楽を演奏したり作ったりする上ではこの上なく便利な尺度だけれども、それ以外の音楽にとっては、邪魔にこそなれ、絶対的な尺度を何も持たないのではないかという疑問がいつもつきまとう。
 こんな話しを聞いたことがある。絶対音感を持っている人の中でも、その能力をまったく混乱なく使いこなせる人は、絶対音感という尺度と相対的な尺度(相対音感)を共存させている人だけだと言う。きっと、そうだろう。何か一つだけの尺度で音楽を考えていけば、きっと何らかの障害に突き当たる。人間の感覚には、そもそも絶対的な尺度など存在し得ないのだから。
 今のアメリカの社会の混乱は、そうした絶対的な尺度をキリスト教的な意味で善と悪の二元論で解釈しようとしているところにあるのではないのか?ブッシュが言う「悪の枢軸」といった考えは、こうした二元論がもたらす典型的な誤謬の一つ。絶対神というものを持つキリスト教の影響下の西欧諸国の考えは、とかくこうした善か悪かの二元論に陥りやすい(特に、イギリスやアメリカのアングロサクソン系の人たちは)。自分たちの考える善=絶対だと思った瞬間から、それに敵対するものはすべて悪になってしまう。しかし、実際には、人間の世界は、かなり曖昧で魑魅魍魎とした世界。人間とは、見方さえ変えれば、善にも悪にも両方に成り得る存在である。そうした存在だからこそ、人間的な喜怒哀楽が意味を持ってくる。もし、喜怒哀楽に絶対的な尺度があるとすれば、「あなたの今感じている喜びは悪でしょう...。善でしょう....」ということになってしまって、人間は二通りの人間しか存在しないことになってしまう(今の北朝鮮はこれに近いのかもしれないナ)。ことさらアメリカの悪口は言いたくないけれど、アメリカの考え方、ブッシュの考え方はまさしくこれではないのか?自分が善だから、それに敵対するものはすべて悪。この考え方こそ、まさしく共産主義国家などのヒエラルキー国家が潜在的に持つ矛盾点であって、アメリカは、自分たちが否定しようとしている共産主義国家の誤謬にみずから陥っていることになる。
 絶対音感ということばを信奉する人たちは、西洋音楽が、ある意味帝国主義的な考えに基づいた音楽であるという誤謬に無関心のまま、その「絶対」ということばの幻影の惑わされているだけにしか過ぎないのではないかとも思う。絶対音感が確かに便利な道具だということは認める。冷蔵庫の電磁波の音がソの音として聞こえたり、鳥の鳴き声が音階で聞こえたりするのは、人間の並外れた能力の一つの証しでもある。しかし、その能力の幻影の背後にあるものも見落としてはならない。単純に、電磁波の音がソだとわかることが一体人間にとってどれだけの意味を持つというのだろうか(ソでもミでもたいした違いはない)?自然の中にある音がすべて音階として聞こえても、それが一体どれだけの意味を持つというのだろうか(フランスの作曲家メシアンは、その聴音だけで一つ曲を作ったけれども)?
 ドの音もレの音もまったくわからない人でも、音楽を聞いて素直に涙を流すことはできる。そして、そのことがどれだけ人間を幸福にすることができるかを考えることこそが、「音楽を本当に理解する」ことへの最も早い近道なのではないのか?音楽を鑑賞する人にとっても、それを作り出す人にとっても必ず持っていなければならない「必要な」道具があるとすれば、それは、けっして「絶対的な」能力などではなく、素直に音楽に感動できる「感受性」という能力なのではないのか....。
 「絶対」ということばの中に潜む問題点は、きっとこの辺にあるんだろうナ。

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