OCTOBER10のDIARY 『童謡のはなし』

 
 やっと訪れた秋晴れの中、横須賀に行ってくる。ほとんど降り立ったことのない駅。横浜と川崎、鎌倉と、近くのターミナル駅には何度も行ったことがあるくせに、この駅に立ち寄ったことはこれまで一度もなかった自分が妙におかしかった。
 基地のある駅のせいか、ひと目でそれとわかる外国人がやたらと目につく。制服の人もいれば、単純にそうに違いないと勝手に思いこんでしまうような人もいる。どちらにせよ、やけに異国情緒あふれる駅だなと思った。
 異国情緒で思い出した歌がある。『赤い靴』という童謡。
 「赤い靴はいていた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった.... 」。妙に悲しくて、それでいてどこか無気味な歌だなと小さい頃よく思った。あの歌の舞台は、「横浜の波止場から、船に乗って..」と、横須賀ならぬ横浜だったと思うが、今日見た外国人たちが、どこかこの歌の「異人さん」をイメージさせたのも確かだった。
 と同時に、数年前に私が担当していたNHKの子供番組のことも思い出した。3年もやっていたので、たくさんオリジナル曲も作ったが、いわゆる童謡や学校唱歌の類いもたくさんアレンジした。でも、その時一つ疑問に思ったことがある。
 「童謡というのは、本当に子供達が好きな音楽なのだろうか?」。
 多分、そうではないような気がする。
 その番組の中で、一度こんな曲を作ったことがある。ディレクターからの注文は、メジャーの曲だけど、モータウン・サウンド風のミディアム・バラードに聞こえるような曲をという要請。要するに、「『スタンド・バイ・ミー』みたいな曲でしょう?」と聞くと、「その通り」と答える。結果、ディレクターの希望通りの曲を作り、スタッフのみんなからも「いい曲じゃない」といった評価を得るが、いまいち子供たちには受けがよくない。答えは単純なことだった。歌詞が、あまりに「スタンド・バイ・ミー」を意識し過ぎていて、ノスタルジック過ぎたのだ。
 ノスタルジー。つまり、過去を振り返るという感情は、あくまで大人の感情であって、子供達にノスタルジーなどということばはないのだ。過去の時間をいつも背後に持っている大人には、過去がどんなものであれ、それを振り返る時間はあるが、子供にはもともと過去などないに等しいのだから常に未来を見るしかない。だから、彼らには暗い歌は必要ない。常に、前を向く明るい歌しか必要ないということ。
 でも、考えてみると、童謡というジャンルに、そんな明るい歌があるのだろうか?という気もする。
 「かごめ」「赤い靴」「花いちもんめ」「叱られて」「赤とんぼ」「七つの子」...。
 なんか、暗い歌しか思いうかんでこない。今振り返ると、子供時代にこんな暗い歌しか歌ってこなかったのだろうか?
 これに比べたら、アニメやCMソング、ゲーム音楽の方がはるかに明るくていいじゃないか?そんな気さえしてくる。今の子供たちが、これから何十年かたって大人になった時、こういうアニメやゲーム音楽をノスタルジックな気持ちで振り返るのだろうか?
 歌には時代性というものが必ずついて回る。きっと、将来、こういうアニメ、ゲーム音楽を懐かしく振り返る時は来るのだろう。しかし、そこにノスタルジーみたいな感情が生まれるのかどうかはわからない。
 こんなうがった考えをしてみる。
 学校で今無理矢理教え込もうとしている(私たちは教え込まれたけれども)童謡の類いは、人生を何十年か過ごした時点で、子供時代という人生のポイントがあった事の証しとして思い出すための一つの道具なのではないのだろうか?
 少なくとも、今の大人たちが童謡を懐かしむ気持ちはそれが最大の理由のような気がする。何年も歌ったことのない童謡の歌詞を無意識に空んじられるのは、子供時代に教え込まれたせいだろう。でも、童謡の代わりの音楽をたくさん持っている今の子供たちにそれが本当に必要なのかははなはだ疑問だ。
 今の子供たちには、「赤い靴」よりも、「ガンダム」や「マリオ」、「ラピュタ」、そして「ハマサキ」なんかの音楽の方がはるかに説得力を持っているに違いない。
 でも、もし、「大きな栗の木の下で」をUAが歌ったり、「赤い靴」をMISHAが歌ったりしたら、きっと、平井堅の「大きな古時計」ぐらいの説得力を持つかもしれないなとも思う。やっぱ、これは、今の日本の音楽教育のやり方に根本的な問題があるのかもしれないな.....?
 と思っていたら、電話で、おおたか静流さんが、近く、中学校の特別授業で教えるのだと言う。うん、彼女みたいなアーティストこそがどんどん学校の教育の現場に入りこんでいってくれたら、もっと音楽の本質を理解する子供たちが増えるんだろうなと思う。
 何も考えていないと思っていた教育委員会も、少しは考えてはいるんだな...。
 ホンの少しネ。  

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