SEPTEMBER 22のDIARY 『アメリカという国』

 
  『ワグ・ザ・ドッグ/噂の真相』という映画があった。ロバート・デニーロとダスティン・ホフマンが主演するかなりブラックな映画だ。アメリカ大統領のスキャンダルを映画のプロデューサーが架空の戦争をでっちあげてもみ消してしまうという話しで、その映画の中でも架空の戦争のヒーローを中心にアメリカが一致団結して挙国体制に入るシーンがあった。 ヒーローには「歌」が必要だ。とばかりに、カントリーの大御所ウィーリー・ネルソンが、架空の戦争ヒーローの歌を作り上げる。そして、またアメリカが一致団結する。今日TVを見ていたら、今回の事件の追悼チャリティ音楽特別番組をやっていて、その中で映画『ワグ・ザ・ドッグ』の時と同じように、ウィーリー・ネルソンがギター片手に歌を歌っていた。 しかも、その後ろには、マライヤ・キャリー、スティービー・ワンダー、デニス・ホッパー、アーノルド・シュワルツネッガー、ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ、ウーピー・ゴールドバーグなど、数え出したらきりがないほどの映画や音楽のスターが何十人と一緒に口ずさんでいた。これだけの人たちをまともに出演させたら、ギャラだけで天井知らずの金額になるだろうにというような豪華な顔ぶれがそこには並んでいた。 同時に、今朝の朝日新聞には、坂本龍一がN.Y.にいて今回の事件を目撃したが、報復は報復を産むだけで何も意味がない、真の勇気とは報復をしない勇気なのではないかといった論調の文を載せていた。しごく正論で、他の論者の中にはアメリカの報復を小泉首相と同じようにしごく当然だみたいな風に論じる人が多かったので、坂本龍一の意見は、かなりまともな意見として私としてはかなり同調できた。 しかし、彼の文章で、ちょっと気になる部分もあった。それは、最後の方にある、インテリなアーチストとしてとかくありがちな自虐的なセンテンスだ。「音楽に、こういった時に何ができるのか?音楽は、こうした状況ではあまり意味がないのではないか?」と、音楽には社会的状況や政治的状況を打破する力はないのではないかみたいな書き方を彼はしていたが、実際はその反対だろうと思う。 映画『ワグ・ザ・ドッグ』の中でもそうだったし、今日のTV特別番組でもそうだが、音楽ほど人を求心させる力のあるものはないのではないかと思う。そうでなければ、オリンピックの入場式で音楽を演奏する必要などまったくない。ヒットラーがワーグナーの音楽を戦意高揚のために使うこともなかっただろう。おそらく、一般のアメリカ国民には、ブッシュ大統領が「戦争だ!」と叫ぶ声よりも、ウィーリー・ネルソンが、ビリー・ジョエルが、セリーヌ・ディオンが一曲歌う方がよっぽど心をつき動かされるはずだ。
 それにしても、それにしてもである。アメリカという国は、なぜこれほどまでに今回の事件の後一つにまとまり、たった一つの結論を支持するようになってしまったのだろう?これだけさまざまな民族や思想や宗教が入り交じった国であるにもかかわらず、なぜ「報復すべし」「団結すべし」の方向に何の疑いもなくまとまってしまったのだろう?アメリカが世界の中心、アメリカは世界一強い国、アメリカは世界一自由な国。これらは、アメリカに住む人間にとって絶対的な標語でなくてはならないものなのか? おそらく、これがアメリカの特殊性なのだろうと思う。移民が多い国は、世界中にいくらでもある。しかし、アメリカは、そもそもが移民だけで成り立っている国だ。一種のユートピアなのだ。アメリカに来るすべての人には理想があり、希望があるはずだ。その理想や希望を満たしてくれる理想郷(ユートピア)がアメリカであるならば、そこに住む人たちは皆ユートピアンだ。どんな宗教を持とうが、どんな肌の色を持とうが、どんな身体的特徴を持とうが、皆ユートピアンであることに於いては同種だ。 そして、そのユートピアが現実的に壊されることは、ユートピアンにとっては耐えられない出来事に違いない。ましてや、ユートピアを壊そうとしている人間がいること自体が許せないのではないだろうか?
 中東戦争にしても、アイルランド紛争にしても、宗教や民族という対立軸があっての争いであり、それ自体が人間の性(さが)、業(ごう)のなせるわざという気がするが、ひょっとしたら、アメリカ人だけが、こうした人間の本質的に持っている避けがたい原罪からかけ離れた所にいるのではという気がしてくる。だからこそ、ベトナム戦争にも湾岸戦争にも、「正義」という錦の御旗のもとに「理想主義」だけで戦うことができたのではないだろうか? ただ、そんな二十世紀の「理想郷」アメリカが二十一世紀も存在していられる保証はどこにもない。
 今回の「戦争」は、そんなアメリカの断末魔の悲鳴のような気もする。

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