SEPTEMBER 19のDIARY 『日本人の特殊性』

 

 何か大きな事件があったりすると、ふだん何気なくやり過ごしていることに急に関心が向いたりする。今日もブッシュの演説を聞いた後、パキスタンの大統領の自国の大衆に向けた演説をCNNで聞いた。パキスタンにとっては、降ってわいたような災難だろうと思う。 隣がアフガニスタンだったばかりに、イスラム教の人口が多い国だったばかりに、今パキスタンという国はこちらをたてればあちらがたたずの最も難しい選択を迫られる国になってしまった。 日本にいつまでたっても危機意識がないのは、こうした国境をどことも接していない場所に国があったせいだろうと思う。 国境紛争もない国だし、蒙古襲来とアメリカの進駐軍に侵入されたぐらいの危機感では、今のパキスタンの「困った」感は実感できないはずだ。だから、日本の人種と民族、そして宗教に対する意識は、世界中のどこの国とも違う。

 最近、年表で世界の人種の分布と民族構成、そして宗教を調べてみた。この点で、日本は見事に特殊な国だということがよくわかる。人種は、モンゴリアンだというのは誰でも知っている。では民族はと言えば、日本民族が99%で、残り1%が朝鮮人(つまり、在日韓国人の人たちということだ)。 そして、アイヌの人たちは、もう数として数えられないぐらい消滅している(この点もアメリカ・インディアンとはだいぶ違う)。世界中で、単一民族なのは、北朝鮮ぐらいなものだ(韓国も、中国人が数パーセントいる)。いろんな民族が入り交じっているのはアメリカだけではない。世界中の国すべてだ。次に宗教。 普通、どの国がどの宗教を信仰しているかというのは、何パーセントの人がキリスト教、何パーセントの人が仏教、といった具合にパーセントで現す。日本を除く世界中の国がこのやり方で説明されている。其の点、日本だけが違う。日本の宗教だけがパーセントではなく人数で示される。神道が1億。仏教が1億1千万人。キリスト教が百万人、その他が百万人(これは、ちょっと違うと思うが)。この人数を全部足すと、日本の人口よりもはるかに多くなってしまう。つまり、一人の人が複数の信仰を持っているから、パーセントでは現せないということになる。こんな国は世界中探してもどこにもない。もっとも、私は無信仰だという人がたくさんいるだろうが、現実的に、神道と仏教は、どこの家にもある。神棚と仏壇が置かれ、それを真剣に信仰するしないにかかわらず、この2つの宗教は、常に日本人と共にある。それを、自分では無信仰だ何だと言っても、外国人から見れば、立派な信仰と写る。明治以降にキリスト教が日本で力を持ち始めたが、その勢力は人口の1%前後をずっと維持し続けている。これ以上増えることも減ることもない形でほぼ百年近くの時間が経過している。日本人の宗教感の根本は、このパーセントで現せない宗教のごった煮を許容する寛容さだと思う。これを寛容とは言わずに、いい加減さだという人もいるが、私はこれは立派な寛容さだと思う。八百万の神を作り出して、「いわしの頭」さえも神様にしてしまう「いい加減さ」は、さっき言った日本が島国だった特殊性と無関係ではないだろう。隣がいろんな国と接していたら、こんな悠長なことは言っていられなかったはずだ。「お前は仏教信徒なのか?キリス教徒なのか?一体何なんだ?」と常にきちんとした選択を迫られていたはずだ。大体こんな特殊な国に、アメリカの片棒をかついで「打倒イスラム!」なんてできるはずもないし、そんな理屈もない。あるのは、せいぜい仲間はずれにならないように、ポーズだけでも「いい子」にしていたい日和見主義者の理だ。世界に誇れる立派な文化と歴史、そして人間を持っているのにもかかわらず、国としての自己主張がいつまでたってもできないのは、この日和見性と何でも受け入れる寛容さにこそあるのではと私は思っている。もともと黒白をはっきりつける理屈を持っていない日本に、外国の理屈を論破できるだけの根拠はない。その気になれば、イスラムだって丸のみしてしまう寛容さこそがこの国のエネルギーなのだから。

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