AUGUST 7のDIARY  『竹内まりやの曲はみんな同じだぜ!?』

 

 竹内まりやの曲をキャロル・セラでレコーディングするので、オリジナルの歌詞を英語に訳している。といっても、キャロルがちゃんとしたフランス語の訳詞をつけるために元の日本語の歌詞の意味を伝えなければならない。以前、『YAWARA』というマンガの歌を英語、フランス語、スペイン語で歌うアルバムを作った時、英語をフランス語の訳詞の担当は私だったのでフランス語の歌詞は作ったことはあるのだけれど、キャロルの場合には、すべてキャロルに任せることになっている(前3作もすべてそうしてきた)。単純に意味を伝えるだけだったら、私にとっては英語の方が間違いがない。だから、英語に訳しているのだが、毎回この作業をするたびに思うことがある。それは、日本語の意味不明さだ。
 もともと日本語は主語が曖昧な言語で、一体誰が主語なのかわからない文章が本当に多い。 いちいち、私は、とか、あなたは、と言わないところが日本語らしくていいのだが、これを外国語に訳す段になるとそれではすまない。 主語がわからない限り、訳しようがないからだ。例えば、『セプテンバー』という曲。 松本隆氏が詞を書いている。この人の詞は、竹内まりや本人の詞よりも余計に主語がわかりづらい。
 2行目に、「飛び乗った電車のドア」とあるから電車の中の出来事だとはわかるが、3行目の「いけないと知りながら 振り向けば隠れた」。 これだけでは、誰が振り向いたのか誰が隠れたのかよくわからない。4行目になるともっとわけがわからなくなる。 「街は色づいたクレヨン画 涙まで染めて走る」。走るのは電車に違いない。でも、ここには主語になりそうな単語がいくつもある。 街、電車、クレヨン画、涙。でも、きっとこの文章の主語は、そのどれでもないのだろう。
 この曲の風景の主人公は、私とあなた。男と女。 竹内まりやの曲では必ずそうだ。シチュエーションは、不倫のようなアヤウイ関係が多いが、たとえそうでなくても、主人公は、私であり、その思いの対象はあなたのはずだ。でも、歌詞の中にはそれがほとんど出てこない。代わりに、電車だの、街だの辛子色のシャツだのが出てくる。そういったもののイメージが主人公の気持ちや心象風景のイメージを作り出している。日本語だとそれはよくわかる。誰が誰とどこで何をしたとはっきり書いてなくてもOKで、逆にそんなことをくどくどと書くと歌詞としては全然詞的でなくなってくるから思いっきり松本隆の詞のように、イメージの羅列が多くなる。 だから困ってしまう。これでは、訳せないではないか。日本語が自動的にフランス語でも英語でも、瞬時に訳されてくれるなら問題はないのかもしれないが、今回のように、一度オリジナルの意味を伝えて、それから外国語の歌詞に書き換えてもらうような場合、元の歌詞の解釈はとっても重要だ。はっきり言って、私が元の日本語の歌詞の意味を取り違えていたら、それがそっくりそのまま間違ったフランス語の歌詞になって返ってくる。
 「街は色づいたクレヨン画 涙まで染めて走る」。日本語としてながめればけっこう情感のある詞のように感じられるが、意味を考えるとサッパリわからなくなる。意味不明じゃ。

ダイアリー.・トップへ戻る