AUGUST 12のDIARY  『イチローはすごい!』

 

  最近なぜこれほどまでにイチローの野球にハマっているのか自分で自分を冷静に分析することが多くなってきた。 やることはたくさんあるにもかかわらず、イチローの野球をつい見てしまう。オリックスにいた時は、放送自体がほとんどなかったこともあって(日本のTVは、巨人しか見せてくれないのだからしょうがないが)彼の野球にそれほど関心があったわけでもない。 ただ、4割を打つか打たないかといった世間並みの野次馬的な興味しかなかった。それが、今年彼が大リーグに行った途端、日本のTVも毎日のように彼の試合を放送し、彼の活躍をまるで外圧のように喧伝する。 彼がアメリカに行く前からたくさんの日本人の野球選手がアメリカで活躍していた。 にもかかわらず、これほどまでにTV局が放送し、これほどまでにメディアが彼の一挙手一頭足を追い掛けることはかつてなかったことだと思う。 日本のNO.1プレーヤーがアメリカに行ったのだから当然と言えば当然のように聞こえるが実際はそうでもないだろう。最初は、いくら彼ほどのプレーヤーでも本場アメリカではそれほど活躍できないのじゃないだろうか。それほど悪くもないだろうが、かといってそれほど高いレベルまではいけないのじゃないだろうか。おそらく、あらかたの人がそう思い、そういう予測をしていた(おそらく、本人以外は)。しかし、いざ始まってみれば、そこそこどころの話しではない。日本のNO.1は、アメリカでもNO.1だった。そういうストーリーになっていた。この筋書きを予測でき、その筋書き通りに行動できたのは、イチロー本人だけだ。
  私が、彼の活躍にこれほどまで熱くなって応援するのは、別にイチロー本人が好きだからでも何でもないし、イチロー本人に興味があるわけでも何でもない。彼がどんな私生活を送っていようがいまいがそんなことはどうでもいい。要は、彼のような存在がアメリカという国にどんな位置を占めることができて、それをアメリカという国がどれだけ認めるかということが問題なのだ。私が、20年以上前にそれこそイチローぐらいの若さでアメリカに留学した時、自分の実力がアメリカで通用するかどうかなんていうことはサッパリわからなかった。ひょっとしたら、アメリカに着いた翌日しっぽを巻いて逃げて帰ってしまうのではないか。それとも、そのままアメリカの大地に骨を埋めてしまうかもしれない。その時点での私の未来は本当に真っ白だった。でも、最悪のシナリオも最良のシナリオもどちらも用意しながら、自分では絶対にやれるんだというおぼろげな自信があった。
 別に、自分をイチローと比べてみるつもりは毛頭ないが、彼がアメリカという国で自分の実力を試してみたくなった気持ちはよくわかる。そして、それがどうやって彼らに受け入れられて、どうやって拒否されていくのかそのプロセスは私には痛いほどよくわかる。音楽とスポーツを比べてもしょうがないと言われそうだが、この二つには共通点がある。それは、どちらもことばの障害が少ないということだ。スポーツにも音楽にも国境はないとよく言われるが、それはことばのバリヤーが両方とも少ない分野だからだ。だからこそ、若い時に私も外国で自分を試してみたくなった。そして、幸いに私もアメリカ人の中で自分の実力をある程度認めさせことができた。しかし、同時に抵抗も少なくなかった。若い時は、私もコスモポリタンをきどっていた。国なんか関係ないじゃないか。音楽をやるのに、日本もアメリカも関係ない。 日本人だってアメリカ人だって、どんな人種だって関係ないじゃないか。本気でそう思っていた。ただ、実際はそれほど甘いものではなかった。自分の肌の色、目の色、髪の色、そして、宗教やカルチュアの違いがこれほどまでに人間の心を支配しているのか身を持って何度も知らされた。 世界中の人すべてが、自分と同じ考え方ではない。むしろ、世界中の人は、すべて自分とは違った考えを持っている。そう考えるべきだということをイヤというほど教えられた。
 今、イチローがアメリカでスーパースターになりつつある。それはそれで素晴らしいことだし、私もそうなって欲しいと思っている。でも、世の中にはそれを素直に喜べない人もおおぜいいる。イチローがアメリカで活躍し、ファンをたくさん獲得し、たくさんの人を味方につければつけるほど、彼の見えない敵は人気の高さに比例して多くなってくる。アメリカ人は、野球を国技だと思っている。野球がオリンピックの種目になり、それがいくらインターナショナルなスポーツとして認知されたとしても、あくまで野球はアメリカのスポーツ。それが、彼らの基本的な考え方なのだ。柔道がいくら世界的になっても、日本の柔道とオリンピックの柔道は別物だという日本人は意外と多い。それと同じように考えるアメリカ人だってけっして少なくないはずだ。それらを押し退けて、それでもなお頑張るイチローの姿を応援したい。それは、イチローがすべての日本人を代表しているからではない。日本一人一人が、自分の生き方を投影できる鏡のような存在だからだ。いつの時代も、ヒーローは鏡のようにそこにある。

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