APRIL7 のDIARY  『作曲という行為』

 

 いつの間にか桜が終わってしまい、花屋の店先には色とりどりの春の花、そしてくちなしなどの夏の花もちらちら目につくようになってきた。この時期が一番花の彩りが目立ちかついろんな花の香りに包まれる時でもある。久しぶりに鉢植えを買った。ジャスミンとガーデニア、つまりくちなしだ。どちらも香りの強い花だ。同じ場所に並べては香りが喧嘩をしてしまう。幸い、まだ両方とも花びらを開かせてはいないが、これが満開になった時、彼らの置き場所をどうしよう?そんなことを考えること自体が楽しい春でもある。
 昨年の5月に始めた私のレギュラー・ライブ、昨日のおおたかさんとの共演でほぼ一年になる。昨年の5月の時もおおたかさんとのライブだった。昨年ピアノを弾いてくれた梶田くんは昨年の9月に亡くなってしまったが、それ以降は、違うピアニスト、違うメンバーたちに囲まれていろんなスタイルでライブを続けてこれた。昨日のライブは、その一年間の蓄積がやっと実を結んだ、そんな感じのするライブでもあった。超満員のお客さん(これまでで最も多かった)。演奏もかなり充実したものだったと思う(PAなしで演奏したせいか、おそらくこれまでの自己ベストに近いかもしれない)。相変わらずMCはうまくないにせよ、自分の音楽、自分の表現したい事、それを助けてくれる仲間、そしてそれを期待するファンという関係が着実に実を結んでいることを実感できたような気がする。十代の頃から数えれば足かけ何十年もライブ演奏は続けているわけだが、自分というアーチストがこの世の中にいてもいいんだという実感を感じることはそれほど多くはなかった。それが久しぶりに感じられたライブでもあった。ピアニストの久保田くんと以前リハーサルをした時、半ば冗談のつもりで自分が22年前の学生時代に書いた曲の楽譜を持ち出し、これを一緒にやろうと言った。フルートのメロディとピアノの右手、左手のすべての調が違うというかなりアバンギャルドな曲だ。彼は必死で譜面をおって私に合わせてくれた。何せ初めて二人で合わせたばかりである。それほど完全な演奏になるはずはなかった。それでも、彼は私にこの曲をライブでやろうと熱心に言ってくれた。それを昨夜は演奏した。ほぼ私の意図通りの演奏ができたような気がした。その22年前の作品を演奏する前に、意図的に私が一番最近作った曲(2ヶ月前)を演奏した。別に実験をするつもりはなかったが、自分の20年間で一体何が変ったのだろう?それを自分でも確かめたかったし、リスナーにもそれを判断してもらいたかった。
 2ヶ月前の作品は、どちらかと言えば聞きやすいフランス映画を意識したような曲。サロン風の曲と言ってもいいかもしれない。それに対して、20年前の作品はけっしてわかりやすい曲とは言えない。何せ、三つの調が同時に鳴っているのである。聞きやすいわけがない。でも、この作品、私としてはとてもいい曲だと思っている。しかも、お客さんもとてもいい曲だということを認めてくれていた。けっして聞きやすくはないにもかかわらず。自分で、その時はっきり何かがわかったような気がした。20年前のアメリカの学生時代にとっていた作曲の授業の課題として提出した意欲的な現代曲作品と、20年のプロの音楽家としてのキャリアを経験した後に書いた2ヶ月前の作品に共通してあるものと、まったく変ってしまったもの、その2つがはっきり見えたような気がした。
 プロしての技、お客さんと喜ばせるコツ、クライアントの注文通りに曲を作る術。こうしたものは20年前の自分にはまったくなかったものだ。ひたすら自分の音楽性だけを信じ、そして書きたい曲を書いていた学生時代。そしてできた作品が昨夜の作品。しかし、片一方は、20年の間に覚えてしまったさまざまな生きるためのテクニックを使って書いた作品。作品の中に表現されている自分はまったく変っていないと思った。しかし、その表現方法が明らかに違う。それが生きるということなのか?体験を積むということなのか?久しぶりに本当の自分に向かい合った気がした。

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