MARCH 9のDIARY  『匂いの記憶』

 

 また、しょうこりもなく匂い関係の本を読んでいる。今度は、『匂いの記憶』という翻訳本だが、これがまたなかなか面白い。人間の感覚をつきつめていくと最終的には匂いしか残らないのではないかというぐらいこの感覚には人間の本質があるような気がする。人間が、胎児として母親の羊水の中にいる時目は開いていない。必然的に、目が見えているとは思えない。そして、水の中で何かに触っているわけでもない。ものを食べているわけでもない。でも、母親がかぐ匂い、そして母親が聞く音は聞こえているはずだ。それが、人間の生まれる前からの記憶としてずっと残っている(のだろう)。匂いと音の感覚ほど記憶と結びついているものもないからだ。ただ、人間は、この大事な感覚を疎外し続けているような気がする。他のほ乳動物は、人間の何百倍も何千倍も鋭い嗅覚を持っている。犬にしてもネコにしても、クマでもゾウでもすべて人間よりははるかに優れた鼻を持っている。というよりは、それだけすぐれていないと生きて行けないからそうなっているのだと思う。
 人間の鼻も、本当はそんなに劣ったものではない。本来は、十万種類ぐらいの匂いを嗅ぎ分けられる能力を持っている。人間の顔だって、鼻の突起を基準に作られているわけで、鼻の内部の面積は以外と広い。鼻の粘膜の上は脳と骨を一つ挟んで隣同士で、その脳には嗅球という匂いを電気信号にして脳に送る部分につながっている。人間は、匂い以外に知能というものが発達してしまったおかげでこの嗅球という部分がかなり小さいのだが、サメの仲間は、この嗅球が脳の中でかなりの面積を占めているという。魚は匂いを頼りに生きている。サケが自分の生まれた川に帰れるのも匂いのせいだというが多分本当だろう。
 人間も、匂いを頼りに生きていた時代があったのかもしれない。この匂いがきかなければ、腐ったものとそうでないものを見分けられない。これは、生きる上でけっこう重要だ。最近の食べ物は、賞味期限とかが書いてあるわけで、これが食べられるかそうでないかの判断の根拠になっているが、本当はそうではないのではないかと思う。匂いを嗅いでみて、食べられるかどうか。これが、人間が本来的に持っていた食べ物対する基本コンセプトではないかと思う。私は、今でもけっこうこれを基準にしている。私は、ジャーも炊飯器もレンジも持っていない今時珍しい人間なので、御飯をオカマで炊く。これが一番オイシイし、早く炊けるからなのだが、あまった御飯がいつ腐るかはいつも匂いが頼りだ。電子レンジがあれば、冷凍にでもしてチンすればすむのだろうが、レンジがないので、あまった御飯は冷蔵庫には入れずに、なるべく冷たい場所に置いておく(ひや御飯もけっこう好きなので、冷蔵庫には入れたくない)。冬場なら、3、4日は腐ることはないが、夏場はさすがに半日も持たない。でも、こうした匂いに頼る感覚がけっこう人間にとって大事なのではないかと思う。自分の鼻を信じないで、文字の情報を信じることでしか生きられないのはある意味悲しいと思う。

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