DECEMBER 21のDIARY 『バリアフリー』

 
  ふだんは車で移動することが多いが、この時期飲みに誘われる機会が多いせいかけっこう頻繁に電車を利用する。昨日も地下鉄に乗ったら、いつも定期的に配布されているメトロニュースという小冊子が置いてあったので読んでみる。バリアフリーのことが掲載されていた。もともと地下鉄は階段を使って地下に潜らなければ乗れない乗り物なのだから、このバリアフリーのことは率先して取り組むべきだったのだが、やっと重い腰をあげたのかなという感がする。バリアフリーに関してJRはいまだに最悪な状況だけれども、そのうち周りからせっつかれて取り組むようになるのだろう。こういう問題は自分たちが車椅子にでも乗るような状況にならない限り自分の痛みとしてはなかなかわかりにくいものだ。  
 数年前にあるJRの駅のトイレに入ったら、改装直後のピカピカの身障者用のトイレが設置されていた。そこまではいい。しかし、このトイレに身障者は一体どうやって辿り着けばいいのだろう?すぐにそう思った。階段しかないその駅で車椅子の人間がこのトイレを利用するためには相当の数の人間の御厄介にならなければ辿りつけない。よく駅の階段で介護の人と駅員さんが車椅子の人を必死になって持ち上げてホームまで乗せようとしている光景に出くわすが、私はあれを見るたびに無性に腹がたってくる。車椅子に乗っている人が本当に望んでいることはそんなことではないだろう。誰の助けも借りずに一人でホームにたって、一人で電車に乗ること。自分の一人だけの力で、誰の助けも借りずに世の中をスイスイと歩いていかれる。そのことを本当は望んでいるんじゃないのだろうか?自分が身体が不自由で、もし外に出たいと思っても、誰かの助けがないと外を歩けないのだったら、外に出る気も失せてしまうだろう。自分が世間の厄介者のような錯覚を抱いてしまうかもしれない。しかし、外の世界が、別に誰の助けも借りずに自分一人の力だけで自由に勝手気ままに歩いていかれるのだったら、それこそ本当の意味で健常者と対等に暮らしていかれることになるのではないのだろうか?  
 バリアフリーとは、シルバーシートを免罪符のようにただ作って、「ハイ、私たちは身障者のことを考えてますよ」というポーズを取るのではなく、身障者が誰の同情も受けずに暮らせる社会を作るのが本当のバリアフリーなのだと思う。ニーチェだったかキルケゴールだったか忘れたが、「同情は軽蔑である」ということばを言った哲学者がいた。本当にそう思う。同情なんて気持ちは必要ない。お互いに助け合う気持ちは大事だが、身障者が常に健常者の助けがなければ暮らせないようなアンバランスな関係ではお互いに気まずくなるだけだ。お互いに自立して暮らす。そして互いに助け合う。この順番がなければいつまでたってもバリアフリーなんていう世の中はやってくるはずがない。

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