DECEMBER 17のDIARY 『母の残してくれたもの』

 
  母親の誕生日はよく覚えている。しかし、父親の誕生日はまったく覚えていない。父が本当はいくつの時に死んだのかすら私にはよくわかっていない。わかっているのは、自分が小学校5年の時に死んでしまったということだけだ。しかし、それに比べて、母親が死んだ時の記憶は鮮明だ。私の中学時代の後半、母はほとんど闘病生活をしていた。病院に入院しているか、もしくは家で療養しているか、そのどちらかだった。私はどういうわけか、母との死際の会話まではっきりと覚えている。癌の痛みに苦しみながらも私の将来のことをいつも思いやってくれていた気丈な母だった。
 母が死んだの四十代半ば。母は、正式な結婚はしないままに私と弟を産んだ。しかし、父親はそんな私たちを認知した。正妻に子供がいなかったからだろう。私の記憶の中にいる父親は一つの像しかないが、母の記憶はいろいろにある。父と仲良くしゃべっていた母。父に暴力をふるわれて泣き叫んでいた母。父の葬式に私と弟の手を引いて正妻の前に堂々と姿を現した母。そんな母が女手一つで自分の家を作り、その中に自分の母親(私の祖母)、兄弟(叔母)を住まわせ、シングルマザーになった叔母の娘を養女として引き取り、そして私と弟を育てたのだった。事実関係は幼かった私にはわからないが、私の父が私の家にお金を入れていた形跡はない。私の家の生活費は、すべて母が一人で稼ぎ出したお金だ。そして、これだけの家族の面倒を一人で見ていた。芸者をやり、水商売をやり、こつこつとためたお金で家と土地を買い、そしてアパートまで作り死んだ後までそのお金で私と弟を大学まで出してくれた。それだけでも、私ごときが足下にも及ばないのに、今また母は素晴らしいプレゼントを私たちにくれようとしている。
 長年守ってきた渋谷の実家を私たち兄弟3人(姉と私と弟)が処分し、その処分したお金で兄弟のそれぞれが家を建てている。私たち3人のそれぞれが家を建てられるほどの財産を母は残してくれた。それが結局自分の寿命を縮めることになるとも知らず自分の食べるものを切り詰めてためたお金が今私たちを生かしてくれている。私自身が音楽をやったり文章を書いたりして稼いだお金なんて微々たるものだ。いくら印税で生活ができているなんて威張ってみても、あの母親のようなことは未だに何一つできていない。母があれだけの波乱に富んだ人生を、あれだけの苦しい人生を歩んでいなかったら今の私なんて何もないに等しい。
 今日、今建設中の伊豆高原の私の別荘まで足を運んだ。ほとんど内装もでき、外観も家らしくなったその家のベランダから目の前にくっきりと浮かぶ伊豆の大島や伊豆七島のきれいな姿を見ていると、単に美しい景色を見ているだけでなく、私にこんな素晴らしいクリスマス・プレゼントをくれた母親の姿と声がどこからか聞こえてくるような気がしてしょうがなかった。あまりにも若く、美しいまま死に、そして私が一生かかってもできないような事をたった四十数年間でやってしまった母親の偉大さを改めて思い知らされている。

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