DECEMBER 11のDIARY 『ことばのキャッチボール』

 
ことばというものほど不完全な道具はない。だからこそ、人間は、その不完全さを補うために美術や音楽を作り出してきたのだろう。そうでなければ、人間はきっとことばに簡単に押しつぶされてしまっていたに違いない。
 若き友からのことばを受けた。
 そうなんだよ。ロックンローラーということばの意味を、ひょっとしたら私もキミもまったく違った意味で使っているのかもしれない。ことばにはそういう宿命があるのだから、それはそれでしょうがない。でも、私は、ある意味、キミの「ロックンローラー」ということばはしっかりと受け止めることができたように思う。それを、キミはひょっとしたら「ツッパル」という意味にとらえているのかもしれない。「妥協をしない」という意味にとらえているのかもしれない。でも、そんなことばの置き換えではない、キミが根本的に言おうとしていることばの奥底にあるキミの心の深部はけっこう見えたつもりだ。
 主張のできる人。主張のできる生き方。はっきりとしたもの。別にことばに出せなくてもイイ。自分の行動が生き方のすべてを物語るような人間には説得力がある。いくら口だけでウマイことを言っても何もしない人に人は信頼を寄せない。何も語れなくても、生き方そのものがすべてを語っているような人を人は尊敬し信頼する。今、世の中の父親が子供に尊敬されないのは、自分の生き方を子供に見せないからなのではないかと思う。どんな生きざまでもいい。もっと子供に見せるべきだ。清志郎の歌ではないけれど、子供が一番見たい父親は「輝いている父親」なのだし、どんな父親も自分の仕事を自信を持ってやっている姿は「輝いている」のだから。
 私は、音楽的な意味ではけっして「ロックンローラー」ではない。「ロック野郎」でもない。でも、生き方はこれまでずっと一貫して「ロック」してきたつもりだし、今も「ロック」のつもりだ。クラッシックをやっていたから「ロック」じゃないというのは間違いだし、ジャズをやっているから「ロック」じゃないというのも間違いだ。何でこの人の音楽がロックなの?と思うような人が意外と自分の生き方を「ロック」と定義したりする。おそらく、私が、今、もしどこかのオーケストラで楽器を演奏していたとしても、自分の音楽も生き方も「ロック」でありたいと思っていることには間違いないと思う。ロックということばをどう定義するかは人の自由だし、ある一つの決定的な定義があるわけじゃない。でも、ロック、ロックンロールというニ十世紀にできた比較的新しいこのことばにはいろんな意味が含めまれている。「ころころと転がっていく石」なのか、「石が転がっていく」のか、ロックは、常に新しいものを巻き込んで終わりのない旅に出る人間を現すことばなのかもしれない。
 ロックンロールは、生き方の問題。「自分」の問題。自分がどう生きていけばいいのかを真剣に考えること、それがすなわちロックなのかもしれない。「自分」を持っていない人を、私は「ロック」とは呼びたくない。  

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