NOVEMBER25のDIARY 『食べるって何だろう?』

 
 一昨日の朝日新聞に韓国の犬肉の話しが載っていた。来年のワールドカップを控えて韓国の食習慣の中にある犬食が世界中の環境保護団体とかからヤリ玉にあがっているということだった。オリンピックの時にも同じようなことがあって、その時は外国の圧力に屈した韓国政府が無理矢理犬食レストランを閉じさせた。しかし、今回のワールドカップに関しては、韓国のレストラン側は断固として屈するつもりもないし、韓国政府側も国内の伝統的な食文化を守ろうという声に同調していく方針だということが記事には書かれていた。  
 この記事を見て、おそらくこの問題はなかなか決着がつかないだろうなと思った。賛否両論でどちらの意見にも整合性があるから判断するのが難しい問題、ということではない。単純に、お互いの言い分が同じ土俵にないから接点を見出すのは難しいだろうなと思ったからだ。
 捕鯨の問題と同じく西洋社会では犬を食べるということに対する嫌悪感から韓国の食習慣に不快な感情を持つ人が多い。これは、鯨の問題に関してもまったく同じ。鯨はほ乳類の中でも最も高等な動物だから、だから殺してはいけない。イルカや鯨を食べるなんていうのは、おそらく韓国の犬が食べられるのと同じぐらい不快に思っているのだろう。しかし、この問題を簡単に感情論にすり替えてしまってはいけない。日本の鯨、韓国の犬、中国の猿、そして西欧の牛。これらの肉食の習慣に一体どんな違いがあると言うのだろう?牛や豚は食べてもよくて、鯨、犬、猿はダメという論理は、感情論であると共に、生物に等級をつけている完全な差別論でもある。彼らの尺度にあった価値観で動物に段階をつけているに過ぎない。ここには、最も基本的な部分が欠落している。  
 地球上のあらゆる生物が生き延びるためには、他者の「死」が必要だということ。生きるということは、他者の死を自分の中に取り込んでいるということに他ならない。スーパーでパックされた肉や魚、そして野菜の数々を見て、誰も自分がそれらの食べ物を殺したなんていう意識を持つ人はいない。でも、現実に、もし自分がその牛の肉を食べれば、アジの塩焼きを食べれば、牛もアジも殺していることに変わりはない。他の生物の死が自分の体を生かすために形を変えてしまっただけ。ベジタリアンだって同じこと。動物を殺すのは罪だけど植物だから大丈夫、なんて理屈は通用しない。生き物を殺していることに変わりはない。本当に単純なことだ。私達は、毎日毎日何かを殺している。そして、その結果私たちは生きている。これだけのこと。ごくごく当たり前のこと。それを感謝するかしないかはそれぞれの人の価値観だし人生観だから何とも言えないが、でもこの事実(というか真理)だけは忘れちゃいけないと思う。このポイントを抜きに、韓国の犬を食べる習慣や中国の猿を食べるのは野蛮だというのはまったく筋が違う。  
 昔、ロンドンのデパートの食料品売り場に、うさぎの肉があのうさぎの形のまま売られていたが、あれこそ私たち日本人が見たら「何で?かわいそうじゃない』と思ってしまう光景だった。人間の感情なんていうのは習慣や環境によっていくらでも変っていく。感情には絶対的な真理はない(本当はあるのかもしれない。でも、それを発見したり定義できた人は今まで誰もいない)。しかし、人間が何かを殺していかなければ生きていけないことだけは確かだ。こういう真理を教えることが親や教師の役目だと私は思っていたけど、誰も教えていないらしい。それは、親自身が教師自身がこのことを理解していないからだろう。人間は少なくとも自分が理解していることは人に伝えられる。おそらく、今の日本の環境ではそういう事を理解しづらいのかもしれない。生活環境から「死」の匂いがまったくしないからだ。無臭の空間しか世の中にない。親が死ぬ。祖父、祖母が死ぬ。飼っている鶏をしめて食べる。裏の畑のトウモロコシをもいでくる。魚を釣ってきて食べる。昔だったらごくごく日常的な生活の風景の中に「死」はいつもどこかしらにあったはずだ。でも、今そんな環境はどんな田舎に行ってもなかなか見つけることができない(もちろん、都会よりはたくさんあるはずだ)。韓国の犬肉の話しは、「野蛮だ」とか「他国の食習慣への不当な干渉だ」といったレベルの問題ではない。人間が何かを「食べる」ということに一体どういう意味があるのか?そのことを考えていかなければ、いつまでたっても戦争の問題も環境問題も解決されるわけがないと思う。

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