NOVEMBER21のDIARY 『映画への模索』

 
今、映画を作ろうとしている。まったくこれまで映画の世界とは縁がなかった私が何でまた?と思われる人も多いかもしれない。しかし、これは私の人生にとってはえらく必然性のあるもので、単にここに来るまでの道のりに時間がかかっただけで、私の人生の目的の中の一つの行程に過ぎない。そんな風にも思えることを今やろうとしている。
 2年前に原作を書き始めた。当初は、ある大手出版社と出版の話しを進めていたが事情でそれはあきらめ、出版よりも先に映画作りを始めることにした。もちろん、映画作りなど素人の私だ。私一人の力で映画なんかが作れるわけがない。当然、協力者が何人も必要になる。映画監督、プロデューサー、製作会社、その他数え上げたらキリがないほどの人たちとの協力が必要だ。そのための根まわしはやっている。何人かの監督が興味を示してくれている。ただ、これからの日本の映画のあり方を考えると、これまで通りの映画作りの方法はとりたくない。結果がある程度見えるからだ。大手広告代理店、制作会社、プロデューサー、製作委員会、スポンサー、etc。こういう形での絡みとスタッフ作りは、映画製作にまったく関わってこなかった私でもあらかた了解している。でも、このスタイルで、どれだけ立派な日本映画が作れたのだろうか?「千と千尋」だけに一人勝ちされるような情けない映画の世界では何の未来もないし、これからもそうたいした映画が作れるとは思わない(ディズニー映画を肯定するスピルバーグだって、映画とか人間の意味をどれだけわかっているのか?といつも思う)。とは言っても、まだ映画を作ったこともない素人の私がえらそうなことを言ってもしょうがないのだが、ある面、この映画作りに対して勝算はある。お金をどれだけ集められるかという勝算ではない。フランスのプロデューサー、外国のプロダクション、日本での劇場用映画作りの実績はないけれどもそれ以外の映像分野では超一流の映画監督、等など、こうした一番大事な部分での勝算だ。未だに「○○組」という名称で映画作りのスタッフを呼ぶ旧態依然たる日本の映画作りの体質に縁のない人たちの協力関係でしかできない映画。そして、配給システム。そうしたもので作る映画が今の日本には絶対必要だと思う。  
 私は、ずっと音楽作りをやってきた。しかし、そうした私のようなプロの音楽スタッフには絶対の真似のできないことをDJの連中はやってのけた。クラブだけでシコシコとダンスのための音楽をかけていたDJ。ただかけていたと思われた連中が見事に音楽を根本から覆すようなことをやってのけてくれた。彼らの発想は、我々音楽のプロが持っていた発想とはまったく正反対の発想だ。我々は、ゼロから音をどんどん足していって音楽を作る。彼らDJは、まったく逆に、100あるものからどんどん引き算をしていって、そして必要なものだけを削ぎ落として残ったものだけでカッコイイ音を作る。私たちには、到底真似のできなかった発想だ。そんなこと、プロの我々には怖くてできやしない。しかし、彼らはそれをやってのけて見事に成功している。ただ、もちろん彼等のやり方が手放しでいいわけではない。彼らにもできないことはたくさんある。要は、そうした新しい発想を取り入れながら、音楽の原点的なものを大事にして作っていく。このスタンスが大事であって、同じことは映画にも言えるはずだ。映画業界に長くいればいるほど怖くてできないことはたくさんあるはずだ。逆に、映画にまったくの素人の私みたいな人間ならできることもある。  
 要は、何が必要か?それは、一つしかない。映画に対する愛情、音楽に対する愛情。
 じゃあ、愛情さえあれば音楽だって映画だって簡単に作れるのか?もちろん、そんなことはない。必要なものはある。だから、必要なものはそろえる。でも、必要なものを揃えたからといったっていい映画、いい音楽は作れない。そこに必要なものは、やはり愛。これしかない。今、私の周りには、この「愛」を持った人がどんどん集まりつつある。
 毎日毎日学芸会レベルでしかないTVのドラマしか作れない日本の映像の世界を見ていると本当に悲しくなる。別に、日本人の演技のレベルが欧米に比べて極端に低いとは思わない。極端に低いのは意識だ。バスの運転手の役がきたら、大型免許をとるまで撮影に入るのはやめなさい。ダスティン・ホフマンのように、自閉症患者の役がきたら、病院に半年ぐらい通いつめなさい。ピアニストの役がきたら、本当に弾ける真似のできるまで血みどろで練習しなさい。映画を見る人は、映画の世界を虚構とわかって見ている。虚構を楽しむためにお金を払っている。つまらない虚構に誰がお金を払うだろうか?現実の出来事の方がよっぽど面白い。現実よりも面白いかもしれないという期待と夢を抱かせるのが映画の役目なのにそれをしない、できない。役者もそれをできるだけの能力を持っていない、いなくても役者をやっていられる。演奏する力のない人が舞台にたって演奏していても客は感動できるわけがない。演技のできない役者が演技をしていても客は面白いわけがない。でも、それをやらせない環境が日本にはあり過ぎるのだ。ぶつ切りで撮影していけば、セリフを覚える必要もないし感情をこめる必要もない(カメラの長回しで撮影できるができる日本の役者なんて数えるほどだろう)。ポストプロダクション技術が発達したおかげで、素人レベルのアイドルでも主役ができる環境を作っているのは私たち大人だ。いい加減にこのガキ文化をやめにしないと日本のエンタテインメントは影も形もなくなると思う。欧米はもちろんだけれども、台湾、香港、韓国の方がはるかにレベルが高くなっている。たけしや黒沢清だけが評価されたって日本の映画がよくなるとは思えない。このガキ文化が直らない限り、どこまでも意識は落ちる一方だろうと思う。愛もなくなるだけだ。こういう状況を作った責任は私を含めた大人たちにある。私と私の同年代の映画関係者は、その点で意見が一致している。私たちが作ってきたこのどうしようもない文化を何とかしなければと口を揃えて言う。今からでも遅くはない。

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