NOVEMBER2 のDIARY 『なぜシャンソンは受けないか?』

 
 昨日が満月で、今日の月もかなりキレイだった。月がきれいだと、何だか気分がいい。最近けっこうイヤなことばっかり続いていて(今も続いてるんだけど)気が滅入っていたけど、何かこんな他愛のない喜びでもスーっと心が癒されてしまうんだナと、意外と自分で自分に安心してしまったりして。
 今日、ある人から「シャンソンって何でこんなに人気がなくなってしまったんでしょうネ?」と聞かれた。まあ、それにはいろんな理由があって、単純にこの理由!っていう一つの理由だけではないのだが、私は、その最も大きな理由の一つが、人間がことばを大事にしなくなってしまったたことがあるんじゃないかと思っている。ちょっと大きな話になってしまうが、十七世紀頃から十九世紀の終わりぐらいまでは、人間はことばを信じていたと思う。信じていたからこそ、ことばで文学や音楽や政治やいろんなことをやってこれたわけだ。二十世紀は、それを浪費して、それで、二十世紀の終わり頃からことばをまったく信じなくなってしまった。ことばを信じられるうちは、人間も文化も政治も信じられるんだけど、ことばが信じられなくなってくると、人間はもはや刹那的に生きるしかなくなってくる。日本でも、長い歴史の間に日本語に対する信頼はあったはずだと思う。ことばで政治を語り、文学を夢を語ってきたはずだ。しかし、戦後、政治家のことばがまったく信用できなくなったところから始まって、権力者と大衆のことばでの争いが始まった。六十年代の学園闘争ぐらいまでは、学生もことばを信じて、権力者のことばの矛盾を突こうと必死にもがいていた。でも、その後の世代は、ほとんどことばを信じなくなってしまった。そのいい例がサザンの桑田だ(彼は私の大学の後輩だ)。ことばにまだ必死にしがみついていたフォークソング世代をあざ笑うかのように、日本語を否定しようとした。日本語を日本語らしく発音させることに一体何の意味があるの?と彼らの歌は言っているように私には思えた。そうなると、もうとどまることを知らない。歌を歌うのに日本語は必要ない。音さえあればいい。そういう世代が主流になってくると、ラブ・サイケデリコのように日本語なのに日本語には聞こえない「音」で歌うことが何の問題もなくなってくる。そんな時代に、シャンソンのように、「ことば」しか問題にならない音楽が受け入れられるわけがない。人類は、二十世紀で人間が作ってきたすべての財産を食いつぶしてしまったのかもしれない。資源も自然も地球も文化も人類の遺産すべてを。そうなると、二十一世紀には、何かを作っていくしかないのだが、その新しい創造物が単なるバーチャルなものだとしたら、人類に果たしてどれだけの未来があるのかナと思う。あんまり悲観的には考えたくないけれども、実際、考えれば考えるほど、人類と地球の未来って暗いなっていう気がする。でも、小さい頃の「未来予想図」は、ホントにバラ色だったのだけどナ。けっして『ブレードランナー』のようにどにょりと暗い未来ではなかったはずなのだが。

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