NOVEMBER19のDIARY 『仕事が生きがい?』

 
 「男の生きがいは仕事」だと言われているし、そう信じている人は多い。文化人類学的に言うところの仕事の起源みたいなものは難しくてよくわからないが、男が外に出て働き女が家庭を守るという図式が出来上がっていくのは、生物学的に見ても割と自然な流れだったのではないかと思う。子供を産むのが女性にしかできない作業だから、新しい命、子孫を残していくという生物にとって最も重要で絶対的価値のある作業をできる人間は女性でしかない。男性は、この人間としての大事な部分を女性に奪われている。だからこそ、それに代わる何かを探さねばとても生きていくことはできないと思ったのだろう。社会を作り、社会の構造を作りルールを作りその中での権力や地位、仕事、名誉、金、プライドといったものに生きがいを見い出していくようになった。私は、こんな風に単純に考えるようにしているが、この考え方、おそらく当たらずとも遠からずといったところだろう。
 しかし、問題は、ここに並べた権力、地位、仕事、名誉、金、プライドといったものに絶対的な価値がどこにもないことだ。時にはそれがもてはやされ、それに群がる人もいる。しかし、一方でそれが人を傷つけたりそれ自体がマイナスの要素としてそれがこきおろされたりもする。要するに、それらは時代や場所や人によって変る、はかない価値でしかない。 それに比べて、女性ができることの何と大きいことかと思う。子供を作り育てる。これ以上に大事で確実な作業はこの世の中にない。男は、それができない代償を他の作業に求める。それだけのことなのかもしれない。
 アメリカは逆説的な国だ。一獲千金やさまざまな成功を夢みて世界中からいろんな人々がアメリカに渡る。そして、その中で、権力、地位、仕事、名誉、金、プライドを人々が奪い合いのし上がっていこうとする。努力さえすれば自分の夢はかなう。そんな希望を持たせる国だから、みんながアメリカに集まりこれらを求めあう競争社会を作り上げる。しかし一方で、これと反対の理念をこの国は持っている。ファミリー・タイズ(家族の絆)だ。仕事も大事、お金も大事、名誉も大事、しかし、本当に大事なのは家族なのだ、ファミリーなのだという倫理観をアメリカ社会全体が基本ルールとして持っているし、それを建て前として持とうと努力する。女性が大事、子供が大事、家族の絆が大事と、そこにすべての精神的価値を集約させようとする。外は競争原理、内は家族第一主義というこの逆接の意味をアメリカ社会は本能的に知っているのだと思う。
『母の願い』という映画がある。
 メリル・ストリープの母親、ウィーリアム・ハートの父親、レニー・ゼルウェガー(『ブリジット・ジョーンズの日記』)の娘という親子3人のドラマだ。父親は大学教授で作家、娘は大学を卒業してニューヨークの雑誌社で働きジャーナリストのキャリアを目指している。ところがある日、母が癌にかかっているのが発覚する。娘は、しぶしぶ実家に戻り病んだ母と仕事優先の父の面倒をみる。つまり、娘が急に母親役を強いられることになる。しかし、この娘は、常々、母が専業主婦という立場に甘んじていることに不満を持っていたキャリア指向の強い女性。毎日毎日、夫の面倒、子供の面倒、家事に追われる母の人生を疎ましく思っていた娘がいきなり専業主婦に近い立場に追いやられてしまう。しかも、父が母の病気をよそに浮気をしているのではないかという疑いまでも抱くようになる(これは、後から娘の誤解だということがわかるのだが)。そして、ますます悪化の一途を辿る母の病気。ある時、娘が爆発した感情を母にぶつける。「こんな母親としての退屈な仕事を毎日毎日繰り返していて、お母さんは幸せだったの?」。それに対しての母の答えは明快だ。「人間が幸せになるのはとっても簡単なことなの。今、自分が持っているものが最高だと思えれば、その瞬間から人間は幸せになれるの。」。  
 母が持っていたものは、父と娘とそして家庭。それだけあれば彼女にとって幸せになるための条件は有り余るほどだったのだろう。母は、家庭だけで人間が満足できるわけがないという娘の考えを根底から否定する。最終的に、物語は母の死で結末を迎えるのだが、この映画で考えさせられることは多い。  
 まず、幸せとは何か?ということ。そして、仕事とは何か?ということ。
 母は、今持っているものだけで十分な幸せを感じていた。娘は、それだけの人生はあまりにも無意味だと思う。よくありがちな母と娘の考え方の相違の根本的な問題は、「今」を良しとできるかどうか。つまり、今ある自分を肯定できるかどうかだろう。人生に不満を持っている人は、今ある自分を何らかの意味で肯定していないし、したくない。だから、不満がある。不満があるから、自分を幸せとは思えない。今ある自分が幸せでなければ、幸せを求める旅は果てしなく続く。しかし、今ある自分が幸せだと思えれば、より大きな幸せを得ることも簡単だ。幸せに幸せを重ねていく足し算をすればいいだけなのだから。単純なことだ。
 この母親は、今ある自分を十分過ぎるほど肯定している。愛する父と娘、そして家庭。これ以上に何を望むものがあるのだろうか?
 でも、人は言うかもしれない。今ある自分だけを肯定していたら何の進歩も発展もないじゃないか。科学者がいろんなものを発明したり発見したり、アーチストが新しいいろんな芸術や楽しみを作っていったからこそ、世の中は発展してきたんじゃないのか。今あるものだけでとどまっていたら、今あるものだけで満足していたら何の進歩も発展もないじゃないか?
 いっけん正論に聞こえるこのことばには、この母親の考えの中にある大事なポイントが一つだけ見落とされている。それは、彼女の気持ちや生き方の根底にあった「愛」という要素。
 母が持っていたもの。夫、娘、そして家庭。それらのすべてのものに彼女は愛を持っていた。だから、彼女はそこから愛を得ることができたし、そのあり余る愛に満足することができた。幸せだった。しかし、いくら仕事があっても、地位があっても、名誉があっても、お金があっても、そこに愛がなければそれらのものには何の価値もない。愛のないものは人間に幸せを与えない。愛がない仕事は、公害を産むだろうし、環境をどんどん破壊していくだろう。愛のない音楽が人を感動させることはできない。愛がない人の心は満たされない。満たされなければ、ますます心は飢える。だから、今持っているお金に満足できなくなり、より多くのお金を求めるようになる。どれだけお金を持てたとしても、そこに愛がなければ絶対に人間は満足することはないんだということをわかっていないか、あるいはわかってはいても満たされないからこそ、満たされようとますます愛の代償をお金で補おうとする悪循環を繰り返す。  
 権力や地位、仕事、名誉、金、プライドといったものを生きがいにしている人は数多い。しかし、そこから愛を得る、そこに愛を与えることはそんなに簡単ではない。愛より優先するものはこの世の中に何一つない。  
 『母の願い』の中で、「母」を失った後、父と娘が味わった喪失感は大きい。娘が仕事に頑張れたのも、母親のこうした願いがあったらこそ。そして、父は何も言わずともこの母(妻)が見ていてくれるという励ましがあったらこそ、頑張って自分の勉強や論文や小節に没頭することができたのだと思う。たとえ彼が、妻の死後もこれまで通り仕事に没頭し、さまざまな業績を残せたとしてもそれは社会に対して「何か」を残しただけのこと。たとえ、世界中の人が彼の仕事を誉めたたえたとしても、彼にとって本当に必要なことばは妻からの一言だったに違いない。彼が本当に自分の仕事、自分のことばを聞いてもらいたかった相手、それは妻、一人だったはずだ。この二人が失ったものは単に「母の存在」なのではなく、持っていたのに気づくことのなかったとてつもなく大きな「愛」だったのだ。人間が、「愛」を失った時に感じる喪失感ほど大きなものはない。愛するものを失った痛手は何ものでも癒せない。  
 ルイス・キャロルの書いた不朽の名作『不思議の国のアリス』の一番最後にこんな文章がある。「Life, What is it? but a dream?」。直訳すれば、「夢のない人生なんて、何の意味があるのだろう?」。 私は、今これをこう言い換えて読みたい。
 「愛のない仕事なんて、一体何の意味があるのだろう?」。

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