NOVEMBER14のDIARY 『読書について』

 
 大学時代の友人からメールをもらった。彼自身の読書感について書いてあった。彼自身、地方新聞のライターなので、読書については人よりも真剣に 立ち向かっている人間だ。その彼が、人間の一生のうちの読書量は限られている。だから、新しい本を読まずに過去に自分が読んだ本を再読していこうと思う。そう書いてあった。 これは、ものすごく正しい態度だと思う。別に友人をヨショしてもしょうがないのだが、彼の言っている意味はよくわかる。
 そもそも読書というのは自分の中に知識や考え方の基本をとりこんで、それを自分の生き方に役立てることだ。自分には知識も生き方も必要ないと思えば読書なんていうものも必要ない。 人間、生きていればどこからでも知識は手に入るし、生き方だって学べる。でも、それでは物足りない。もっといろんなことが知りたい、學びたいという人が本に手を出す。これは、おそらく大昔から、人間が文字というものを発明した時から世界中で行われてきたことだろう。 で、今でも厳然と続いている。子供たちには、それを教育という形で教え込む。だから、それを嫌いになる子供たちもたくさん出てくる。でも、それはしょうがないことだと思う。 まだ、その重要性に気がつかないうちに、大事だ、大事だと言っても、何が大事なのかその根拠を知らないのだから。でも、人間はある時、知識欲っていうものを自分がもっていることに気がつくはずだ。その時になって、自分には何て知識がないんだろうと思うか、あるいは、自分は知識はそこそこあるけど、もっと違う何かを知りたいと思って読書に向う。いずれにしても、これが知恵熱というやつだ。 私は、知恵熱ということばの定義は知らないが、自分が知恵熱におそわれたと思った時が大人になって一回あった。
 6年間のアメリカ留学から帰ってきて半年ほどたった時だ。アメリカから帰ってきた時、私は、しばらく日本語の活字んびふれるのがイヤでイヤでたまらなかった。別に、英語しかしゃべりたくないなどとバカなことを言うつもりもなかった。それほどアメリカナイズされて帰ってくる年でもなかった。 単に、新聞や本、雑誌などの日本語の活字を見たくなかっただけのこと。それが、ある日突然変った。本当にある日突然と思えるほどの急激な変化だった。帰国後、半年ぐらいたったそのある日を境に私の読書熱は突然高まってしまったのだ。そうなると、何でもいいから読書がしたい病である。新聞、雑誌、本、なんでも読みあさった。 まるで知恵熱がついたように(この時の状況は、知恵熱に犯されたとしか言い様のない状態)。これと同じことは、アメリカに言った時も起こったので、まさしくそれが2つの言語で逆転したのだなと私は実感した(アメリカに行って、頭の中が英語ですべてが考えられるようになったのがちょうど半年ぐらいたった頃だった)。 人間のこころや身体が環境に適応する時間がきっとそれぐらいなのだろう。それと似たような話しは、同じく海外に住み帰ってきた人には多く見られるので、きっとそうなのだろうと思う。
  私は、今でも新しい本を読むし、新しい音楽を聞く。いわゆる今月の新刊なり、新しい新譜というやつだ。 でも、それは単に、今どんなものをみんな読もうとしているのかな?とかどんな音楽を聞こうとしているのかな?といった興味からそうしているに過ぎない。別に、そこから本や音楽の新しい知識を得ようとしているからではない。そんなものが今さら得られるとはこれっぽっちも思っていない。今日、ぴあを見ていたら都内で見られる紅葉のカフェ名所が解説いりで紹介されていた。 今世の中にある活字はこういったカタログ文化に支配されている。これは、今の世の中の自信のなさの現れだと思う。昔はこんなカタログ雑誌はなかった。だから、どこで紅葉があるのかなんていうことは、自分がたまたま通ったところに紅葉があればラッキーだし、それがなくても別にアンラッキーではない。つまり、みんな生き方が潔かったとのだと思う。今の活字文化で一番いけないところはここだ。 無駄な知識をカタログで増やすあまり、あれも知らなければいけない、これも知らなければいけないという強迫観念だけが植え付けられて本当に潔い生き方ができなくなっているのだ。私たちには本来レストランガイドなんてものは必要ないのであって、自分がおいしいと思う店が一軒や二軒あれば事足りる。それは、自分の舌で確かめたオイシイものだから、そのオイシイと思う根拠は自分の中にある。これは、生きる自信だ。でも、自分の舌に自信がない人はカタログがオイシイという店に行く。 それが本当においしいのかどうかの自信がないから、カタログのおいしいということばを信じる。自分の中にほんの少し芽生える「ひょっとしたら、この店の味、本当はおいしくないのでは?」という疑念も雑誌のことばがかき消してしまう。これは、本来の読書が持っていた知識とか生き方を學ぶという理念とまったく矛盾する。まるで正反対のことを今の活字は与えているのではないのか?本当に正しい知識の吸収の仕方とか生き方の学び方というのは、必要のないものは取らない、事だと思う。
 本当に私たちに必要な本や音楽は限られていると思う。友人の言う、自分が読んだ本の再読は正しい選択だ。 自分たちがかつて(多分若い時だろう)読んだ本は、その知識欲、知恵熱を持っていた時に選択した本のはずだ。それは、人間が本当に必要な食べ物や場所を求めるのと同じように、本当に必要なものとして求めた本たちのはずだ。それが、また再読できるということ自体が幸せなことなのではないかと思う。なぜなら、私たちは、日々、何か新しい知識は?何か新しいファッションは?何か新し面白いことは?と追い求め続け、結局本当に必要なものを逃してしまっているのかもしれないからだ。でも、若い人に新しい知識は必要だ。本当に必要最少限度のものを見つけるまでは。

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