OCTOBER 20のDIARY 『評論というヤツ』

 
  今や国民すべてが「総評論家」と言われるぐらい世の中には知識と情報があふれている。インターネットというエラク便利な発言メディアがある現在、自分のHPでこんな風に自分の意見を発言する人もゴマンといる。 でも、そういう名もなき人たちの発言はまだいい。別に、職業的な評論家でも何でもないわけだし、それで報酬を得ているわけでもない。しかし、許せないのは、世の中にあふれかえる「◯◯評論家」と言われる人たちだ。評論ということばの意味がまったくわかっていない人たちがあまりにも多すぎる。「 評論は科学」。こんな基本的なことすらわかってない自称評論家がTVや雑誌に何と多いことか。 「それって一体どんな意味?」って聞き返してくるような評論家もたくさんいるかもしれない。これは、どんな評論にも当てはまる。 政治評論だろうが、料理評論だろうが、音楽評論だろうが、すべての評論はすべて「科学」でなければならない。 逆に言うと、すべての学問は哲学だし、すべての哲学は科学、ということになる。 「じゃあ、 料理が科学かい?」っていうことになるが、 料理が料理であるうちは、食べるというプラクティカルな目的のためのひとつの方法論(現象)にしか過ぎないけれど、料理を評論するということは、料理をたくさん知っていることでもないし、料理をたくさん食べたということでもない。「人間にとっての料理の意味を科学する」ことに他ならない。 つまり、料理の哲学だということ。
 スポーツだって同じこと。野球ができる人が野球評論家でも何でもないし、野球に対する知識があれば、野球評論ができるというわけでもない。 要は、野球というスポーツが人間に対してもたらしているもの、どういう意味を持っているかを教えてくれることが野球評論家の役目だと思う。音楽だってしかり、政治だって同じこと。問題は、どんな現象(それが、野球であれ、音楽であれ)からも、人間というもの、社会というものの「意味」を教えていくのが評論家と言われる人たちの仕事だということをわかっていない人が多いということだ。 こんな基本的なこともわからずに、ちょっと知識があれば、私は「◯◯評論家」ですとマスコミに顔を出す。単に知識があるだけで評論ができるのだったら、世の中のマニアやフェチはみんな評論家になっている。
 根っからのヤクルト・ファンの私は、ヤクルトの登場する今年の日本シリーズを楽しみにしていた。昨日、今日と本当に面白い試合をやっている。現在の日本の野球をダメにした元凶の巨人が出ていないだけに実に見ごたえがあって面白いゲームだと思う。 しかし、野球中継に相変わらず登場する「野球評論家」と言われる昔のスター選手たちの話しは、単に面白くないだけでなく、その頭の悪さに腹がたってくる。今日聞いた荒木大輔や小早川の解説など、どんな素人にもわかることを、イライラするような歯切れの悪さでしゃべるだけ(これは、別に彼らだけではないが)。そして、その話しをもっともらしくヨイショしながら受け答えするアナウンサーとのばかばかしいやり取りは、一体この人たち本気?と思ってしまう。 これじゃ、野球ファンは野球から離れていって当たり前だ(サッカーの解説の方が本音が出ている分だけまだマシ)。選手時代の荒木と小早川を私は大好きだっただけに、何でこんなことをして醜態をさらけ出さなければならないのかとも思ってしまう。彼らは、単なる料理人(選手)であって、料理評論家ではなかったはず。アメリカの大リーグの野球中継を見るたびに思う。大リーグの中継は、元野球選手なんか一人も登場しない。それぞれのチーム専属の解説者が担当する。 だからといって、読売、日テレがやるような身勝手な巨人びいきなどしない。それぞれの選手とプレーに対する的確な批判を随時に行っている。大リーグ中継の始まった春、夏頃は、日本語の解説と現地の英語の解説と両方同時に聞いたり交互に聞いたりしていたが、最近では、日本語の方を一切聞かなくなった。聞かなくても言うことはわかっている。イチローや日本人選手がどれだけ活躍するか。関心はそれだけだから。それに反して、アメリカ人の解説者の行う各チームの解説を聞いているといろんなことがよくわかってくる。 野球を通してみた今の日本とアメリカの関係(通常のアメリカ人が現在の日本や日本人をどう見ているかがよくわかる)。テロ後、ラッキー7の攻撃の前に「GOD BLESS AMERICA」を歌う習慣を急に取り入れたりしてナショナリズムを懸命に煽るような姿勢を見せているが、MLB(大リーグの野球連盟)は、社会的には何もしていないこと(MLBは、要するに、体裁良く野球をナショナリズムの高揚の道具に使っているだけの偽善集団)。アメリカは、イチローを追い掛ける日本のジャーナリズムを鼻で笑いながらも、イチローの本当の実力を日本以上に評価していること(アメリカの野球解説者が皆一様に言うのは、イチローがアメリカの野球を変えたということ。このことばに勝る賛辞はないだろう)。
 私は、アメリカの野球解説者たちが本当の意味での野球評論家だとも思わないが、少なくとも日本の評論家たちよりは(彼らを評論家と言うこと自体がバカバカシイが)、評論の意味を知っているし、学問やスポーツ、音楽などの意味を知っていると思う。だからといって、評論家はすべて「音楽の意味はこうです」とか、「料理の人間においての意味はこうです」なんていちいち言う必要はない。要は、すべての評論家が、「評論は科学である」という姿勢を持っているかどうかということ。コレを持っている人のことばには、必然的に説得力がある。なぜなら、音楽やスポーツや料理や政治の意味を問うという姿勢は、その人の生きる姿勢を問うことにもなるわけで、それができている人の意見は、たとえそれがどんな意見であれ傾聴に値するはずだからだ。

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