SEPTEMBER 16のDIARY『シドニー・オリンピック』

 

 別にとりたてて見たくもないと思っていたので生中継を見るような事はしなかったが、BSのオリンピックの開会式の録画の中継を見た。開会式のセレモニーは、おそらくロスアンゼルス・オリンピックの時に度胆を抜かれたような演出はきっとないだろうなと思っていたら、案の定、どちらかと言えば素朴過ぎるぐらいの「学芸会豪華版」のような演出だったと思う。
 ロスアンゼルスの時のプロデューサーがオーストラリア出身なので、また今回も演出したという話しだったので、一瞬、ロスアンゼルスの拡大版、という感じも期待したけど、やっぱりオーストラリアでそれをやるのはきっと無理だろうと思ったのだろう。 彼自身がオーストラリアの人たちの気質を人一倍知っているわけだから、あのおおらかな国で一分一秒の狂いもない正確な演出など最初から無理と思ったのかもしれない。最後の方で出てきたマーチング・バンドにしても、オーストラリアから集めた学生ではなく世界中から集めたわけで、それに対してオ−ストラリア国内で批判がおこったとかいう話しだった。この演出家が、「オーストラリアの学生は、きちんと足を揃えて行進できないから」と言ったとかで、国内から批判を浴びたらしい。
 でも、それはわかるナ、という感じがする。マーチング・バンドで足が揃わなかったら何の意味もなくなってしまう。マーチング・バンドは、フォーメーションが揃ってなんぼの世界だからだ。大体、マーチング・バンドのリーダー(指揮者)は、音楽の中身のことなど何も考えていない。 毎日、人間のミニチュアを机の上に置いて、フォーメーションの研究ばかりしている。トランペットをこう動かして、サックスをこう動かして、最後にこういう形でキメル!このフォーメーションがうまくいかないと判断したら、また最初からフォーメーションのやり直し。バンドの指揮者は、こういった事ばかり考えている。オーストラリアやラテン系の国の人たちみたいなアバウトさでは、精密なフォーメーションはできっこない。2000人のバンドの中に日本のメンバーが150人ぐらいいるという話しだが、それもうなづける。マス・ゲームのような正確さには、アジア人の方がラテン人よりもはるかに向いている。
 でも、オリンピックを見ていていつも思うのは、こういうお祭りを人間は一体いつまで続けられるのだろう、という事だ。「大いなる無駄遣い」、には違いない。でも、この「無駄使い」は、けっこう人間には必要な事かもしれないと思う。一方で戦争を繰り返したり、国々の私利私欲で争ってばかりいる人間のソレは、一種の「業」かもしれない。でも、その「業」の結果もたらされる人間の無力感を乗り越えるためのエネルギ−源として、人間は、セレモニーやお祭りを作り上げてきたのだろうと思う。一見、非生産的に見えるお祭りは、人間にとって、絶対必要なエネルギーの補充バッテリーであり、そのための壮大な「無駄使い」は、人間にとって逆に必要不可欠なのかもしれないナ、という気さえする。でも、長野オリンピックや札幌オリンピックの競技場跡地がほとんど最利用されなかったり、オリンピックを開催するために、いろんな所にシワ寄せが来るのを、きちんと考えていかないと、「こんなお祭り、いらないゼ」ということになってしまう。大阪は、万博でもけっこう頑張ったみたいだが、今度オリンピックも開催するべく頑張っているらしい。東京と違って、大阪人は、かなり合理的に考える人種だから、おそらく単なる「無駄使い」にはしないのだろうけど、どれだけ計算ができているのだろうか?

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