AUGUST1のDIARY『ある友人の死』

 

 夕方の6時だというのに、東武線の谷塚の駅を降りた瞬間強い熱気を肌に感じた。ふだん着慣れない黒いスーツを着るのは勇気がいるというよりもなんだかバカげた行為のようにも思えた。サルスベリの木に咲く花は、暑い夏であればあるほど鮮やかな色になるという。今年がそれにあたっているのだろうか?斎儀場に行くまでの10分足らずの道のりに幾つものサルスベリの花を見つけた。どれも赤やピンク、白い色で鮮やかな花を咲かせていた。通夜や葬儀に出向くことは、人間である以上、いやがおうでも何回も経験させられる。身内の葬儀も何度も経験した。小学校や中学校時代にすでに両親の死を経験した私には、死が人間にとってそれほど特別な出来事だという意識は他の人よりも少なかったのかもしれない。幾つになっても死は悲しいはずだ。それがましてや自分の子供であればその悲しみはいくばかりだろう。
 私の母親が私がまだ15の時に亡くなった時もっとも印象的だったのは、その時まだ健在だった私の祖母のことばだった。この親不孝もの、と言って涙を流していたあの時の祖母の顔が忘れられない。ことばでは怒りながら顔は悲しみでうち震えていた。まだ中学生だった私には、その時の祖母のことばの意味がまったく理解できなかった。なぜ親不孝ものと言ったのだろう?母親はその時44才の若さだったが、祖母はもうすでに70を越していた。友人のピアニストの梶田篤美くんが亡くなったという知らせを昨日聞いて、彼の突然の死に驚くと同時に、彼のご両親の気持ちをすぐに考えた。今日の通夜の前に彼のお父上にお悔やみの電話をしてみた。案の定、一人息子を失った悲しみがことばのひとつひとつに現れ、話しを聞いているのがとてもつらかった。篤美くんはまだ38才。若すぎる死だ。ご両親と二世帯同居をしていたとはいえ、音楽の仕事をしている彼の生活は不規則で、彼の健康を誰よりも気づかって いたのはご両親だったに違いない。
 もともと大学でジャズをやっていた彼を紹介してもらったのは10数年前のことだ。私は、彼のジャズ・プレーヤーとしての力量に注目して何度もライブを一緒にやり、スタジオでの録音にも数回参加してもらった。つい2か月前の5月12日にも歌手のおおたか静流さんと彼のピアノでライブをやったばかりだった。あまりにも突然過ぎる死に心が痛む。しかし、人間の死というものは必ず訪れるものだ。こればかりは誰にも止めることはできない。人間として、生物として当たり前の自然現象とも言える。ただ、人間はこの死を悲しいという感情を抜きにとらえることができない。人間の摂理として当たり前の死という自然現象がなぜ悲しい出来事なのだろうか?
 子供が親よりも先に死ぬ。親しい友人が亡くなる。家族が亡くなる。すべて悲しい出来事だ。でも、その一つひとつがなぜ悲しいかを考える時、悔しさという感情がその裏には必ずあることに気づかされる。自分の最愛の子供を先に亡くしてしまう親は、絶対に悔しいはずだ。どうして自分よりも子供が先に死んでしまうのだ?当然親に先に訪れるべき死がなぜ子供に先に訪れるのか?
 もちろん、自分の身内を亡くしても、友人を亡くしても必ずそこには悔しさがついて回る。生きていればもっと一緒に楽しい事もできただろうに、これもしてあげられた、あれもしてあげられた。交通事故や病気で死を迎えなければならなかった時にも、なぜあの人なぜこの人が、という悔しさが死者を知る人すべてを包むのではないだろうか?
 私は、いつも死との同居ということを考える。核家族化がものすごい勢いで進んでしまったここ最近の社会や家族に、死があまりにも不在過ぎるのではないのか。そんなことも考える。一つの家の中にたくさんの世代が同居していた昔の家族にはおそらくどの家族にも死がいつも同居していたはずだ。家で飼っていた鶏の首をしめそれを調理して食卓に並べることも日常茶飯事だった時代に、人間は動物の死によって生かされているという感覚は無自覚のうちに培われてきたのではないだろうか? 今の社会で、牛肉を食べても、豚肉を食べても、そこに動物の死が大前提にあるという自覚は持ちにくい。死に無自覚である必要はない。人間の死は一つの大きな出来事であり、生を同じぐらいの重さを持っている。しかし、あまりそこから遠い環境では、死の重みも生の重みもただ感情だけに流され、本当の意味を見失ってしまいがちになる。
 生も死も人から人へ受け継がれていくものだ。人の死の悔しさもそれを知っている他者の感情だけにとどまらせず、それを受け継いでいくことが人間社会の基本なのではないだろうか?人の死の悲しさや悔しさという感情だけで人間は生きているのではなく、それを他者、そして人間全体の喜びに変えていくことによって人間は生き続けていくことができるのではないだろうか?それが、生から死へ、そして死から生へと続く人間の摂理なのかもしれない。

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