NOVEMBER 22のDIARY『匂いと第六感』

 

 それが単なる偶然なのか、あるいは第六感的な能力が作用しているのかわからないが、ある人の事を考えた瞬間に、その人から電話がかかってきたり、その人から手紙が来たり、その人のことを話題にする人が目の前に現れたりすることがある。
 おそらく、こんな経験は誰でもあるに違いない。今日もたまたまその人のことを考え、その人に電話をしようとした瞬間向こうから電話がかかってきた。親しい人ではあるが、主に仕事上でのつきあいの人だ。それほど頻繁に会ったり、会話したりする人ではない。しかし、その人が同じ時間に私のことを考え、私もその人のことを考えていた。まあよくあることさですませてかまわない事柄かもしれないが、この類いの事は私にはわりと頻繁に起る。だからと言って、私に特殊の能力があるとは到底思えない。よく、念じれば何でもできるみたいな事を言う人がいる。まあ、ある意味そうなのだが、別段科学的根拠のあることばでもない。思いを集中させることは、持続力や求心力のエネルギーになるから、可能性がより高まるということなのかもしれない。
 私は、いつも第六感よりも、普通の五感のことを考える。特に匂いの感覚。これはとても不思議な感覚だ。匂いは、空気中にある匂いの分子が鼻の粘膜につき、神経を伝わりそれが前頭葉の嗅覚野に到達して花の匂い、土の匂い、モノの匂いとして感知されると説明されるが、単にそれだけでは片付かない、もっと不思議な広がりを持っている。匂いは記憶と密接な関係を持っている。ある匂いを嗅いだ瞬間に過去のある瞬間の記憶が蘇ってくる。具体的な場面を思い出せなくても、ああこの匂いは、私が10年前にあそこにいた時に嗅いだ匂いだ。そんな記憶の回路が自分の中で解き放たれる。私は、よく代々木公園のそばを車で通過する。ごくたまに公園の芝生を刈っている最中にそこを通過したりすることがある。芝生を刈る時の匂いは独特だ。青臭い、土臭い、独特の湿った香りを運んでくる。その香りを嗅いだ瞬間、私の頭の中は、自分がアメリカのロスアンゼルスで芝刈りのアルバイトをしていた時の情景にワープしてしまう。まったく同じ匂いではないかもしれない。でも、公園の芝の匂いが私にもたらすものは、明らかに遠い過去の記憶だ。たまに、夕方近所から魚を焼く匂いがしてきたりすると、自分がまだ小学生ぐらいの時に遊び疲れて夕暮れの道を家路に急ぐ時に嗅いだ近所の情景が思い起されたりする。それほど、匂いと記憶はしっかりと結びついている。
 脳の中で匂いを感知する嗅覚野は視床下部にあり、匂いの信号は、人間の記憶をためておく大脳辺縁系も通過するので、匂いと記憶が結びつきやすいのだと最近の科学では説明する。でも、そんな事だけなのかなという気もする。プラスとマイナスがないところにはエネルギーは発生しない。匂いも音も味も、すべての感覚は、人間の身体の中で電気信号に変えられる。それは、まさしくプラスからマイナスに向かうエネルギーに違いない。すべての感覚がエネルギーであるとすれば、私が今日その人のことを考えたのも、その人が私のことを考えたのも、どこかでエネルギーのやり取りがあった結果、と考えるのは考え過ぎだろうか?

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