藤田嗣治をご存知だろうか?

「ふじたつぐはる」と読む。時々「つぐじ」との記載があったり本人もそのように名乗ったことがあるようだが、きっと誰かがつぐじと呼ぶのでつぐじだということにしたのだろう。藤田はつまらないことで人と言い争うようなことを嫌った。いや、かなり大事なことでも人に言わせるままにした。そのため理解されず誤解は中々解かれなかった。藤田が生きている間、いや最近まで藤田は「絵を売るためにわざと目立つ奇行を行い何も知らないフランス人に日本画風の絵を売りつけ得意になっている。藤田は技巧だけ優れたアルチザン(職人)でありアーティストではない。そしてしっかりとした思想と人格のない戦争協力をした戦犯だ。」と、いった具合だ。藤田の未亡人であり著作権者の君代夫人が藤田に対する日本人の仕打ちを許さず、「正しく評価しない以上、忘れてほしい。」と出版物の刊行などを長年許可しなかった気持ちも理解できるくらい世界で一番有名な日本人画家の評価は低かった。君代夫人の頑な気持ちは藤田の絵を扱うことを美術関係者に躊躇わせた。そのため美術館も藤田を客寄せに使いにくく、展覧会も少ない。本当にこのままでは忘れ去られそうだ。
近年、君代夫人監修で画集が発売されたり、国立近代美術館で戦争画が展示されたりと若干状況は好転して来ている。また、「藤田嗣治「異邦人」の生涯」という本が出版され戦犯藤田という見方をする人が少なくなり、徐々に人気が回復しているらしい。

藤田嗣治を紹介しよう。

房州長尾藩本田家の家老の家柄で父は後に陸軍軍医総監となる。母を5才の時に亡くし父がとっても大好き!な奴になる。もっとも父はほとんど家を留守にしていたので叔母や長姉宅に預けられた。
幼い頃から絵がすきで虫干しされる家に伝わる絵巻物や版画、特に葛飾北斎はその頃の藤田の良き教師だった。私は藤田に一番強い影響を与えた画家は北斎だったのではないかと思う。
14才の時に絵をやりたいことを同居する父に手紙で告白、油絵を始める。中学卒業後フランスへ留学したかったが森鴎外のアドバイスもあり東京美術学校入学、卒業後留学するはずだったが鴇田とみ(藤田は登美子と呼んでいる)と駆け落ちし婚約、結婚。(と、言っても父嗣章に藤田家への入籍はついに認められなかった。)その後絵は売れず、生活基盤は無いまま父が用意してくれた家で楽しく暮らす。しかしそんな状況に満足できるはずも無く、また親族の苦言にもうんざりしてか結婚した次の年にフランスに留学。2年間の約束で父からの仕送りを受けてのことだった。
藤田は留学先の「エロスと自由の国」にすっかりやられてしまう。藤田の絵を酷評した黒田清輝の師匠が本国ではそれほど評価が高くないこと、どんなに奇抜な絵でも受け入れてくれるパリの市民たち、女性たちが働くことが普通のことでまたその教養の高いこと、そして絵描きが尊敬をあつめている!こと。まさに藤田が日本で不満に思っていたであろうことが全て解決する夢の国であった。藤田にとって日本は創造性を否定し独自であることを拒否する国。働く女性を蔑む国。絵描きを真っ当な人間のやることではないとする国。藤田は幼い頃から甘やかされて育った。たまにしか帰ってこない父は普通の明治の父のような厳格さを見せるよりは溺愛していたのではないだろうか。藤田にとって美術学校の教師、黒田清輝は理不尽に傲慢な態度をとり力で押さえ込もうとする初めて出会う大人の男であったかもしれない。藤田は普通の男の子が普通の父親に感じるのと同じ反感を黒田清輝と彼が代表する日本の画壇に感じていたのではないかと思う。
1908年頃小石川から広島の父に宛てたはがき
フランスが画家藤田嗣治を生んだ。
ここで藤田はルーブルに入るような100年後の世にも残る絵を描こうと決意する。そのためには自分独自のものであること自分にしか描けない絵でなければならないと考える。日本人である自分にしか描けない絵を描けば必ずパリを虜にすることが出来ると考えた。その画をものにするために日夜勉強した。また、芸術家は生活も芸術的でなくてはならないと考えた。藤田は裁縫の先生をやっていた妻の登美子に習ったか裁縫も得意であったし、登美子がパリに来てもすぐに活躍できるようにとファッションの勉強もしていた。西洋芸術のルーツはギリシャであるとギリシャ風の衣装を自分で縫って川島理一郎とその衣装でパリの街を練り歩く。まだまだ「藤田の白」を生み出す前であるが他の日本人の絵はみんなダメで自分だけが一番新しい絵をやっていてすぐに世界で一番になると登美子に手紙を書いている。また、登美子を置いて来たことをどれほど後悔しているか、どれほど愛しているかを何度も何度も手紙に書いている。それほど愛した登美子ではあったが登美子の理解者であった父が亡くなり彼女の渡欧は難しくなってしまう。自分たちで旅費を作ろうとするが第一次世界大戦が始まり、藤田も困窮する。初めての貧乏に立ち向かううちに独立心が芽生え父からの仕送りも断り日本に帰らずに絵を続ける決意をする。登美子は何年でも待つ覚悟であったが藤田の父が説得し二人は離婚する。藤田からの手紙には登美子と別れるようなことは何も書かれていない。いつものように「最愛の登美子へ」で終わっている。ロンドンからアメリカに渡るとも書いているが、実際には藤田はロンドンからパリに戻っている。日本に戻らない理由をアメリカで絵が売れるからと書いているのは直接別れを告げられない藤田が手紙を書かない口実にしたのだろうか。自分はどうしても日本に帰る訳にはいかないこと、登美子がパリに来て二人で生活することが現実的には無理な状況になってしまったことなどで、このままでは登美子を不幸にしてしまうと考えてのことだったのか。または登美子が文部省の検定試験に合格したことを知り、藤田とのパリでの生活に疑いを持っていると感じたのかもしれない。
戦争が二人を引き離し藤田は何もかも捨てて絵筆で身を立てようとパリで再び絵を描き始める。と、同時にフェルナンド・ヴァレーと結婚する。傷心の貧しい藤田はフェルナンドの文字通り暖かいもてなしにコロッと参った。個展ではピカソが長時間じっくり見て「藤田こそ天才だ」と言ったとか。ただしこのとき描いていた絵はよく知られた「すばらしき乳白色」の裸婦や猫の絵ではなく、大きな目のふにゃっとした少女の絵だったり砂で出来ているような人気のないパリの街だったりする。それでもそれらの絵をよく見れば描線に藤田らしさが既にあり、油彩画に日本画的な表現が見られる。それから2年後の1919年第一次世界大戦が終わった。それは同時にモンパルナスの画家たちの黄金時代、2つの大戦の間のつかの間の平和な時代、エコール・ド・パリの時代の始まりでもあった。
1922年挿画本「アマルと王の手紙」
この年の秋、サロン・ドートンヌが再開され、藤田が出品した6点全てが入選する。それでも相変わらず貧しかったが藤田はキキをモデルにパリに来て初めての裸体画を描いた。これがきっかけで藤田は「すばらしき乳白色」の売れっ子画家に変身。キキをモデルにした絵は喝采を浴びる。世話焼き女房のフェルナンドは絵が売れるようになってくると藤田を捨ててもっと世話の焼きがいのある日本人画家のところへ行ってしまう。(離婚はなかなかしてくれなかったが。)成功した藤田は街で子猫を拾うようにユキを拾い上げわがまま放題させた。まるで猫を飼うように。絵の方も裸婦と猫が彼のトレードマークとなる。このころパーティーでの奇行やその風体で「フーフー」(狂人)と呼ばれたが、藤田自身は酒も飲まずどんな時でも途中で抜け出して一人絵を描いていた。おかっぱ頭は金がなく自分で散髪していた時代を忘れないため、腕時計の入れ墨は時間を無駄にせずに絵の勉強に励むようにという自分自身への戒めだった。この時代の豪遊ぶりをおもしろおかしく伝える逸話は多いがそのほとんどはデタラメだと藤田は言う。ともすれば無視されてしまう小さな東洋人が世界一を目指すならばフランス人以上にフランス的になる必要があったし、何より日本の存在を無視させないという意図があった。藤田は世界人として強く日本を愛していた。
1925年挿画本「東洋の知識」
1929年にはユキを連れて17年ぶりに日本に帰る。税金を滞納していることがわかり金策のため各地で個展を開いて回ったのだ。金儲け主義的に言われることの多い藤田だが、このエピソードからは経済に疎い一面がうかがえる。久しぶりの日本では極端な2つの反応が起こる。1つは美術界からの激しい反発。日本を愛し、自身の成功は日本の栄誉と考える藤田に国辱という言葉が浴びせられる。もう1つは西洋絵画の本場フランスで成功した日本人画家への市民の熱狂的な歓迎ぶりだ。展覧会や個展はどれも大成功だった。更にアメリカで絵を売ってフランスに戻るはずだったが、しかし世界恐慌が始まり絵は売れなくなり豪勢な暮らしに別れを告げる。エコール・ド・パリの終焉でもあった。また次第にユキのわがままがエスカレートし公然と浮気をし毎晩家で大騒ぎするため藤田が絵を描くことの障害になり、カジノの踊り子だったマドレーヌと1931年、南米に旅立つ。それは逃避行でもあり写生旅行でもあった。南米の各地で個展や制作を行った。この頃の作品は1930年のパスキンの自殺をきっかけに始まった強い色彩と厚塗りによるものとなる。
1927年挿画本「エロスの愉しみ」
1930年挿画本「猫の本」よりサッフォー
帰るところなく日本に戻った藤田だったがマドレーヌが母の見舞いと日本では麻薬を入手するのが困難なためフランスに帰った間に堀内君代と出会う。気性の激しい独立心の強いフランス女性に疲れた後、日本人女性の優しさに惹かれたのだろう。君代の存在を知ったマドレーヌは再来日するが麻薬によって急死する。いつもは女に捨てられうやむやに女たちと別れて来た藤田であったが、初めて別れの現実に向き合いショックを受ける。以後もしばしばマドレーヌの肖像を描き続けた。
日本ではまだ大変な人気であったが画壇には依然として藤田を疎ましく思う空気が低く垂れ込めたいたが売れっ子画家に公然と異を唱える者はなかった。藤田はメキシコなどで出会った風土に根ざした美術に心惹かれ日本の各地や中国などの風俗画を数多く描くようになっていく。秋田の平野政吉のところで世界最大のキャンバスに描かれた壁画を描いたのもこの時期だ。また、後に問題となる戦争画であるがこのころ海軍嘱託で従軍画家として漢口を描いた絵はなんとものんびりとした風景画であった。1939年君代を伴いアメリカ経由で8年ぶりにフランスに戻る。しかしその年第二次世界大戦が勃発。戦火の迫るパリから最後の船で日本に帰国。今度の戦争は二つの祖国が敵同士となってしまう。
第一次大戦ではフランスのために何かせずには居れぬと赤十字看護夫に志願し川島、ザッキンらと戦火の中担架を担いだが、同じように日本のためにと軍の依頼を受け戦争画を描くようになる。海軍軍医総監だった父を持つ藤田にとってそれは考えるまでもない当たり前のことだっただろう。そして何よりはじめのうちは軍のうるさい注文に辟易しながらも画題としての戦争にのめり込んでいく。軍の思惑などを通り越して戦争の真実を描き続けた。最近ようやく国立近代美術館でその一部を見ることが出来るようになった。機会があれば一度見てほしい。戦意高揚するとは思えない。しかしそれらの絵を嬉々として描いた藤田には不気味さも感じる。一方、それらの戦争画はキリストの受難画と同じように信仰の対象となったようだ。それらの展覧会では涙を流しながら皆手を合わせ、絵の前には賽銭箱が置かれたと言う。これらの絵は大変な人気を博した。かねてから狭い美術界の中でなく大衆に自分の絵を見てほしいと欲していた藤田にとって願ってもない状況であったことだろう。だが敗戦により状況は一変する。戦犯として画家も裁かれるのではないかという憶測が流れた。それまでも藤田を好ましく思っていなかった日本の画壇は藤田一人に戦争責任を押し付けようとする。戦争協力という意味では横山大観の方が積極的だったといえるが藤田は誰より上手に戦争画を描いた。それまで藤田をチヤホヤしていた人々が藤田を遠ざけ陰口を叩くようになると藤田はまたフランスに帰ろうと考える。初めてフランスに留学した時に感じたよりも強く日本人に対する憎しみを感じた。
1947年藤田嗣治画「東京ロマンス」
1949年、ついに藤田はニューヨークに発ち二度と日本には戻ることがなかった。羽田空港で語った「絵描きは絵に誠実に、絵だけを描いてください。仲間喧嘩をしないで下さい。一日も早く日本の画壇も、国際水準に達することを祈る。」は有名だ。藤田はフランスに永住する決意だった。翌年にはパリに戻るが都合が悪くなる度日本とフランスを行き来する藤田に新聞などは冷たかった。まだまだ名声は保っていたもののフランスでは藤田は過去の人になりつつあった。モンパルナスは見る影もなく、1953年キキの葬儀に参列した有名画家は藤田一人であった。藤田はプルミエールにアトリエを構え心の中の少女たちを描き続ける。その絵は無表情に見るものを見つめ返す。藤田は醜い現実から逃避し夢想の世界で絵を描いているかのようだ。ただ、無邪気に見える子供たちの目は笑っていない。祖国から見放された藤田の悲しみと虚無感が表れているようだ。フランスに永住する決意は固く、ついにフランス国籍取得、日本国籍抹消。最後のフランスでの生活はとても静かなものだった。本人は訪ねてくるものは拒まなかったが、特に日本人は「日本人とは会わない。」と言う噂を信じて訪ねていく人も少なかった。1959年、フランスで死ぬ準備であったのだろうかキリスト教の洗礼を君代とともに受ける。藤田の宗教画には仏教画の構図を取り入れたものも多く、どこまでキリスト教を信じていたのかわからない。以前自殺した画家たちが犬のように葬られたように、異教徒のままでは死ねないと考えたとしても不思議はない。洗礼名は敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチから名をもらいレオナルド(フランス読みではレオナール)とした。1966年、ランスに自分で設計した礼拝堂を着工。フレスコの壁画を内部に施すが漆喰を塗り、それが乾く前に絵を描き上げると言うフレスコ画法は湿気の強い室内で休むことなく描き続けなければならない過酷なものであり、80才の藤田には荷が重すぎた。その後入退院を繰り返し、1968年1月29日チューリッヒ州立病院で死去。
日本を愛し、日本を憎んだ。何より絵を愛し絵に対する愛情だけは生涯不変であった。藤田にとっては絵のこと以外は全てつまらないエピソードなのだ。絵描きの評価は絵を見て決めてほしい。ついに2006年3月に国立近代美術館で藤田嗣治展が開催される予定だそうだ。是非その作品に触れてほしい。

1958年頃水彩「少女」
1959年素描「少女の肖像」
1960年挿画本「小さな職業人」
以上、時代を代表する作品とは言えない
我々のコレクションから

参考資料

藤田嗣治書簡 -妻とみ宛-    「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会
藤田嗣治「異邦人」の生涯    近藤史人
藤田嗣治とエコール・ド・パリ  ノーベル書房
藤田嗣治芸術試論        夏堀全弘

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